私が好きでよく見ているビントロールっていうゲーム実況グループが最近どんどん有名になって、そのリーダーさんが雑誌で取り上げられてた。ビントロ自体にもいろいろな企業からお声がかかっているみたい。それ聞いてちょっとうらやましいなって思った。私も漠然と有名になりたいとか「すごい人」って言われたいって思う気持ちがあるから。で、そこから派生して有名な人って大抵お金持ってるよね、ってところでお金について考えてみた。多分これ書いたころは演劇とか歌とかそういう自分の好きなもので食べていけない不条理さとか、一方でビントロみたいに好きなことで食べてる人に対する若干の嫉妬とかもあって、論自体は混乱してるけど、私が考えたことの一つの軌跡として残しとこうと思って載せます。↓↓↓
お金持ちっていうと悪いイメージ。だけど一般にすごい人って大金をもらっている人。テレビとかで紹介されるのも年収いくらですとか利益がいくらとかですごいねぇっていう。多分「お金持ち」にはお金を溜め込んでる人って感じがして悪いイメージだけど経済を回してる人、はみんなに利益をもたらしてるからいい人すごい人なのかな。社会システム的にお金を回してくれる人がすごいって言った方が経済がよく動いて助かるから大金を動かしている人ほどすごいって言われる仕組みが出来上がる。税金とかも会社の運営者が税金として大量にもっていかれるくらいなら経費でいっぱい使ってって考えるように、ていう思惑もあると思う。税金にはならなくても社会の経済回すのに役立つから。社会システムにとって一番よくないのはお金を使わずに溜め込む人だから。だからすごいかどうかで言うと、主婦とか小さな工場とかもすごいんだけど本当は、でも大きな経済効果がないからすごいって言われないし注目されない。でも日本の経済は実は主婦が握っているんだとかいう説が流れると一気に主婦に注目が集まったり、主婦をターゲットにした商品ができたりする。でもこれは社会的にすごいと言われるのとは違うか。ターゲットにされただけだもんな。
社会を回すためにお金持ってる人をすごいというのか、すごい人にお金を払うから自然とそうなるのか、どっちなんだろう?鶏と卵みたいな問題かな?
物とか労力、成果に対して対価を払うものと払わないものの違いは何だろう?例えばYouTubeとかで面白い配信をするとその対価としてスパチャを投げてくれる人がいる。あとは広告代。これは面白い動画の対価ではなくて、経済を回す人として認められた結果の対価。
これだと、先に来るのは自分の行いが人の役に立った対価で、あとからそれに付随して社会的役割の対価が発生したってことになる。だから、ビントロの場合ははじめは作品に対する対価の段階だったのにいつの間にか社会的役割の対価を受け取る認められるまでになったのか、すごいなぁってことかな。先に小さな作品対価があってそれが多くの人に認められることが社会的対価を受け取る資格になるってことか。
一方で私がこうやって一人でお金について考えていることに対価は支払われない。それはこうやって考えていることが他人に認められていないから。誰かの役に立つことですって言われないから。ということは人の役に立つことをした人が対価を受け取れる。人に認められる働きをした人が大きい対価を得られるってことになる。
ということは対価を受け取れるかどうは他者つまりは社会の認識に大きく左右されることになる。主婦に対しても対価を払うべきだ、という社会の認識があれば主婦が職業として認められ、国や会社から主婦に対する給料が支払われることになるだろうし、話を聞くこと人の相談に乗ることが当然対価を払ってしかるべきっていう認識の社会だったら、友達同士、親子関係でもいつも相談に乗ってもらっている人には正月に小袋渡すみたいな習慣ができるだろう。芸術家、保育士看護師とかの給料が日本と海外で違うのもその認識の差があるからだと思う。自分のやりたいことが現代社会で価値あるものとして認められているかどうかっていうのは結構大事よね。