ガチJW信者の母がそう宣言しました。


主な理由は、

①老化による外出意欲の低下

②大会出席に伴う費用負担の目途が立たない

③大会出席に伴う身体負荷への不安

だそうです。


②については、humanが費用援助を一切断ったのが主因となります。


③は、以前より母が主張していたことです。

地域大会に出席すると、帰宅後しばらくは体調が悪くなり寝込むのは毎年のことでした。


例えば母は胃腸が弱いのですが、いったん列の中央付近に着席してしまうとトイレに行くのもままならず、ギリギリまでトイレの回数を我慢していざトイレに行けど、どこも行列ですぐに用を足すこともできず。

トイレの中まで行列が並んでいるなか、他人の気配をすぐそばで感じながら排泄物を出すのは辛いそうで、結局排便できずに戻ったこともあるそうです。

たかがトイレといえど、母にとっては身体的にも精神的にも大きな負担になるようで、毎回それを考えるだけで憂鬱になるそうです。


また大会期間中の移動手段(会場〜ホテル間)が確保出来なかったため、日帰りバスでの移動になりますが、早朝5時台に出発して約3時間の乗車。そこから約8時間の大会出席。そしてまた約3時間の乗車。帰宅は20時台となり、合計着席時間は単純平均12時間以上に及びます。

それが3日間。


他にも大会中の休憩時間の少なさや1時間に及ぶプログラム等、弱者への配慮が欠けているとの主張です。



「大会に出席しないのは、崇拝に対する認識の欠如であり重大な問題」と言うのであれば、どんな境遇の人でも安心して出席できる体制を整えるのが真の宗教組織の責任ではないか。

というのが母の言い分で、さすがhumanの母だけあって、考え方が似ていると感じました。


そもそも新約聖書で神に受け入れられる崇拝とは、

「患難の時に孤児ややもめを世話すること」

と明言されているのですから、

「大会プログラム中に席を立たない」

「賛美の歌が始まるまでに着席する」

「後日の復習のプログラムのためにしっかりノートを取るように」

等の枝葉末節の事柄を、まるで重要事項かのように崇拝と結び付けてステージから繰り返し勧告するなど、弱者を切り捨てるような大会運営が神に受け入れられるはずがありません。

事情により途中で席を立たざるを得ない方たちは、全く不要な罪悪感を毎度味わわされるのです。

組織は出席者を、反発心から学校の授業を抜け出す若者かのように見下しているのが伝わってきます。



そういえば以前は大会出席者に食事提供がなされていましたが、「大会運営の簡素化」「主に給食部門の兄弟姉妹たちが大会プログラムから益を得損なっている」といった理由で中止されました。


でも先ほどの赤字で示した聖句を考えれば、毎年はるばる何百キロも離れた地域から何時間もかけて大会に移動してくる人たちのために開催都市のクリスチャンが食事提供するとすれば、それはじゅうぶん立派な「受け入れられる崇拝」ではないんでしょうかね?

聖句を「原則」で考えるようにと散々教えてきたのはJW組織自身のはずです。




結局この組織はいつだって、

「余った中から多くを寄付した人」

「群れから迷い出なかった99匹の羊」

の方を高く評価するユダヤ教的な組織でしかないのです。

イエスの事を完全否定しているので、イエスの教えから何一つ学ぶことが未だにできていません。


クリスチャンが守るべき命令とは、イエスの「新しいおきて」つまり

「わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛することです。」


これだけです。


賛美の歌や祈りによる形式的な崇拝等は課されていません。


物理的な崇拝場所も求められていません。


クリスチャンが集まり合うよう呼びかけられたのは、あくまで互いを励まし合うためであり、集合して崇拝行為を行うためとは書かれていません。


聖書に書かれていないこと(つまり神から求められていないこと)をいくら一生懸命頑張ったところで、神からの祝福などあるはずもなく、残るのは大きな出費と身体的なダメージと少しの自己満足。




母が自ら欠席の決断を下した事を、うれしく思います。


大会期間中には、一日くらい少し豪華な食事を母にごちそうしたいと思います。