第一次世界大戦は、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇位継承者フランツフェルディナント大公がボスニアヘルツェゴヴィナのサラエボで殺害されたサライェヴォ事件がきっかけであると言われています。

この事件をきっかけにフランス、イギリス、ロシアを中心とする協商国とドイツ、オーストリアハンガリー、オスマンを中心とする中央同盟国の間で第一次世界大戦が勃発します。

大戦の中で最も重要な戦線と見られていたのは、フランス、ベルギー、ルクセンブルクを中心とする西部戦線でした。ドイツは当初、ロシアとフランスとの同時戦闘を避けるためフランスを集中的に攻撃し短期間で降伏させ、その後ロシアとの戦いに全力を注ぐというシュリーフェン計画に基づいていました。

しかし、1914年9月5日にはじまる第一次マルヌの戦いで進撃は食い止められシュリーフェン計画は破綻します。これ以降、ドイツはロシア、フランスとの本格的な二正面作戦を余儀なくされます。

一方、東部戦線はバルト海沿岸から黒海沿岸に至る広大な戦線であり、ドイツ軍、オーストリア軍を中心とする同盟国軍とロシア軍が対峙しました。東部戦線の戦況が変わるのは1914年8月26日に開始したタンネンベルクの戦いであり、この戦いで敗れたロシア軍はドイツ領から撤退し、以降東部戦線ではドイツ軍が優勢を保つことになります。

しかし、8月23日からのロシア軍の進撃によってオーストリア軍はカルパチア山脈への撤退を余儀なくされ、オーストリア軍の穴埋めをしようとドイツ軍が送り込まれますが、この影響でドイツはタンネンベルクでの勝利を生かしロシア軍を追い込むことができなくなります。

また、第一次世界大戦ではバルカン地方でも戦線が築かれており、1914年8月12日にオーストリア軍がセルビア北部への侵攻を開始し一旦はベオグラードを占領したものの、モンテネグロの協力を得たセルビア軍はオーストリア軍を撃退し、12月15日には首都を奪還することに成功しています。
その後、ブルガリア軍が中央同盟国側で参戦することによって1914年10月9日にベオグラードは陥落し、中央同盟国軍がバルカン半島を支配することとなった。
イタリアは当初、中立の立場を宣言していたが、オーストリア領内に残された未回収のイタリアのを奪還できることを協商国との取引に1915年に中央同盟国に対して宣戦布告を行うこととなった。1917年10月24日に開始したカポレットの戦いではイタリア軍は悲惨な敗北をするが、後にアメリカ軍も含めた連合国軍がイタリアを支援することでイタリア軍は中央同盟国軍に対しての優位を獲得し1918年10月のビットリアヴェネトの戦いでは決定的な勝利を収めることに成功している。
第一次世界大戦は文字通り世界中を巻き込んで世界規模での戦争であり、ドイツ植民地のなかで最も広大だったアフリカでは1914年8月6日にフランス軍がトーゴに侵攻してアホネを奪取しており、これが連合国の手に落ちた最初のドイツ領であると言われている。また、列強各国は自国の植民地から人員を戦地に補充しており、イギリスはインドから非戦闘員を含めて130万人近くの兵士を動員しフランスは北アフリカ、インドシナからおよそ60万人近くの兵士を動員し、数多くの植民地から人員が動員された。
動員された植民地の兵士たちは自治権などと引き換えに大戦に参加したものが多く、決して率先して宗主国の戦争に加担したわけではない。
また、日本はドイツ権益の奪取を目的に協商国側で大戦に参戦し、膠州湾、青島などを占領することに成功し、現地のドイツ軍を降伏させることに成功している。
第一次世界大戦はドイツの無制限潜水艦作戦の宣言をきっかけにアメリカが参戦することで戦局が一変することとなる。
アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換しドイツの敗北は確実なものとなった。
1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱をきっかけに各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、帝政が倒されることになった。ドイツ共和国の臨時政府の権力を掌握した社会民主党のエーベルトは、1918年11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終わりを迎えた。
第一次世界大戦での戦死者は802万人、負傷者が2122万人、民間人死者は664万人とされおり、戦場は主としてヨーロッパ大陸であったが、初めての世界大戦として、重い数字を残している。