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福島から山口・空・海・大地

わすれない。ひとりでも可視化を

総裁選では わいて出る🏺が増えている
今朝見た携帯のSNSに書いていた
だけども問題は今日の飯 コメがない

 

 

D★A★M★A★S★H(ダ・マ・シュ)  ザ・マッチ 後少しで消える

 

  

                税金ふんだくったおじさんの詰めあわせ

 

 

              ふんだくられた税金とり返

福岡3区奥田ふみよ氏衆議院候補

 

 

ふんだくられて黙っていると、ズッとふんだくられる

コメがなければ笹を食え 朝・昼・夕

 

 

 

コメの消費税がなくなれば…

 

 

 

米の作柄と値段、農業政策に、ふりまわされる農家と人民



減反で作付け面積を減らし、農薬・肥料で反あたりを増やしてきた

                             👇

 

 

 

 

お米の自給率  自給率100%から下落する歴史

 

➊明治初期~1889年 コメが輸出のNO1!

1879年~1888年十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量約470万トンに対して約5万トンが輸出されていました。

輸出先は、主に英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。

欧州でもイタリアやスペインを中心にお米が生産されており、米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました。
このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率が100%を超えていたのです。

 



❷1890年  輸出国から輸入国へ
お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。


お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、1889年に暴風雨による水害で収穫量が前3ヶ年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、1890年には不足分を賄うため約29万トンのお米を輸入することになりました。

                

米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました。

 

1890年 日清戦争前のコメ騒動

 

暴動のリーダーは獄死

                             by日本の街道を歩く旅

 

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

 

 


➌いったい何が起こったのでしょうか?

原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。

 

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明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています。

 

それまで、農村では米だけを主食とできる人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。

好景気によって、農村の米食率が上昇するとともに米食中心だった都市の人口が増大したことで、お米の消費量はわずか20年で約1.5倍に増えたのです。

 

庶民が贅沢になった? アワ・ヒエから白米へ

 

 

 

❹人口増加とコメの輸入増加
明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、1892年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています。

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、1911年には5,000万人、1926年には6,000万人を超え、1940年には7,200万人にまで達したのです。

 

1910年 朝鮮併合後 

15年間で1000万 29年間で2200万人増加 毎年66~76万人増加

海外進出(侵略)へ

 

 

 

 

➎大正時代・昭和初期  朝鮮・台湾などからコメ調達
お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました。

 

                              大豆生田稔

 

ただし、この頃、朝鮮半島・台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土に朝鮮半島・台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります。

 

1917年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インド(ビルマ)、仏領インドシナ、タイ)が21%となっていました

 

 

植民地の朝鮮・台湾などで、人々は飢えていた

 

1927年 水俣のチッソが朝鮮に肥料工場を建設

 

 

 

➏1918年 輸入しても不作・値上げでコメ騒動 

1918年には、2年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。


 

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1918年米騒動:コメの価格急騰にともなう暴動事件

 

名古屋・広島県三次

 

 

神戸                      岡山

  

 

政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。

しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限や輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました

また、1941年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、1943年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内の食糧不足が深刻になりました。

 

 

コメ不足なのに戦争を続けて負けた国

 

 

 

 

❼昭和中期 敗戦のツケで飢え 1950年からコメ輸入

1945年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島・台湾等からの輸移入に頼っていた需給構造が崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。

 

しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは1950年以降でした。

タイ、ビルマ(ミャンマー)、米国、エジプト等からお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

 

1952年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、1950年の938万トンから1967年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました。

 

約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

 

 

 

❽昭和後期から  洋食でお米の消費減少と食料自給率低下
増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活が多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、1962年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

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生産が需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、1961年からは生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。

 

一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。

 

自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率(カロリーベース)は1965年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。
 

 

コメは汗と涙と血の歴史
日本大好きと言いながら、コメ離れしてませんか?

原発事故をくり返して、美しい水田が太陽光になるのは良いですか?

 

 

福島

 

 

 

宮城

 

 

栃木

 

 

青字はブログ担当者の記事

 

 

 

 

 

 

人口が減り、需要が減るから減反? 

災害があれば不足して飢餓?

 

生産者には高い価格で 消費者には低い価格で 消費税ゼロで

 

長谷川ういこ Uiko Hasegawa@uikohasegawa
「減反政策」は廃止。余ったお米は政府が買い取って備蓄し、災害や困窮者の食料支援に回せば良いのです。  

「減反は消費者のためにも、農業のためにもなっていません。

減反をやめた結果、コメの価格が下がって困るなら、欧米各国のように財政から直接支払いを行えばいい」

 


長谷川ういこ Uiko Hasegawa@uikohasegawa・Aug 21
さて、予想通り「減反政策は廃止されてる!」とのコメントが。

記事で山下先生も指摘されていますが「「減反廃止」は安倍政権のごまかし」です。

生産を減らせば補助金を出すという減反政策の柱はそのままで、今でも年間3000億円超が使われています。

食糧安全保障上もお米の生産増に転換しましょう。