辺見庸「純粋な幸福」(毎日新聞出版)より。

所収の「声」から、抜粋。

『 ひとの器量はどのみち声音にでる。ウソも声調にあらわれる。狡猾も欺瞞も純情も誠実も老若も、それらのふりも、おおむね声ににじむ。声とは、人間がとりかえしのつかないかっこうで外界に露出していることのあかしである。(中略)わたしたちの声は届けたいひとにちゃんと届いているだろうか。じぶんの声はどこにも届いていないのに、他人の声ばかりが聞こえる。そんな時代に生きてはいないか。わたしたちは発語される声にみはなされていはしないか・・・・・。

 (中略)ひたすら口をつぐみ、他者の声にじっと耳をかたむける。すると、しだいにじぶんがみえてきたりする。うかつで無遠慮で無神経で無恥なじぶんの声が聞こえてくる。』

 

 たしかに他者の声にじっと耳をかたむけることは大切だ。なかなかじっと耳をかたむけることは難しい。他者は私はうかつで無遠慮で無神経で無恥な男だと気づいているにちがいない。