母って、対象なくしては母とはなり得ない存在。

○○の母、○○にとっての母、、、。

私が妊娠、出産を経験して真っ先に気付いたことは、

母っていう存在は、子供を授かったその瞬間から子供に振り回されっ放しであるということです。


子宮が精子を受け入れた瞬間から、母はすでに振り回される運命なのです。

ひょっとすると物理的には、精子を受け入れる行為からして受身だけれど。。。


妊娠、出産までの経過については、間違いなく母の体は子宮に支配されています。

まずツワリでぐったりします。

そうこうしているうちにお腹はどんどん大きくなり、体型が変わり腰痛になり、

出産では死ぬほど子宮に痛めつけられて苦しむ。

私は早産になりかけてしまって5週間入院したのだけれど、それも子宮さんの気の赴くままベッドに縛り付けられていて、自分では生まれそうな状態を止めることもできず、好きな日に産むわけにもいかないわけです。

全て子宮と中に入っている子供の決めること。

母はなすすべなく、天を仰いで祈るのみです。


子宮という産むための器官は、赤ちゃんが宿って生まれるまで、赤ちゃんの大きさに自由に合わせながら形を変えていく。

普段は握りこぶし大から、最後はスイカ大くらいだったと思う、3000g前後の人間を収められるほどに大きく。

そして赤ちゃんが生まれればまた平素の大きさまで1週間ほどで収縮して戻る。


女が母になるとき、その臓器に物凄く影響を受けるわけで、母の体を象徴すると言ってしまってもいいのではないだろうか。

何が言いたいかと言うと、子宮のように、ありのままを受け入れる態度が大事な母性の本質のひとつだと思ったのです。

そしていよいよ子供が生まれてしまえば、今度こそ確実に子供に支配されていくわけですから。



三島由紀夫も書いていたけれど、女ってひょっとすると、本当に客体的な存在なのかも知れない。

女は女だけでは女にあらず、男にとっての女という存在だという書き方だったと思う。

そのときはただの時代的な女性蔑視の見方なだけだと思っていた。

三島が書いていた文脈では男と女の関係についてだけで、母は考慮されてはいなかったけれども、

見方を変えてみれば女は、行為からして男を受け入れる側なのは間違いないし、いざ受け入れてしまったら最後、次は子供を受け入れる運命なわけです。

本来やはりそういうものなのかも知れない。

そういうふうに「受け入れることを受け入れる」ことができるように躾られていると言えばまたトゲがあるけど、みんなそうして生きているのは間違いない。


私にとって肝心だったのは、女として受動的に生きる生き方はきっとある程度は幸せなんだと、やっと実感することができたこと。

常にそれに甘んじるのも良くないこともある、とも痛切に思うけれども。



女は、何かを受け入れ続ける受動的な生き物である。。。

それは蔑視の見方なのではなく、女の美徳なのではないか。

母になった今、まったく悲観せずに、そう思える。

私、無事です(笑)。


そして出産も、無事済んでいます。


なんと2月15日、元気(そう)な男の子を無事出産いたしました。

2360gでした。未熟児でした。


でも元気でした。

現在すでに生後6ヶ月になりますが、いたって元気であります。


途中、妊娠経過が芳しくなかったこともあり、太陽のように強くたくましく生きて欲しいという願いから、

陽大と書いてはるたと名付けました。

私たちにとっては本当に太陽のような存在になっています。



もう前回の更新から軽く半年は経過しているんですね。


昨年の年末には切迫早産になり、5週間入院しておりました。

その間もいろいろ思うところはあったのですが、、、更新する余裕もなく、この有様です。


これからは育児日記になるのか、また音信不通になるのか、不明ですが、

また不意に書きたくなったときのためにこのブログは閉じないようにしておこうと思います。

映画や本などは今のところ育児に余裕がなさすぎて、観られておりません。。。


赤ちゃんとの生活も、やはり深いです。

なにか思うところを書いて行けたらいいなあとは思います。



生きて無事出産を終えていることだけでもご報告できたらと思い、更新させていただきました。

気まぐれで酷い人間ですが、今後ともよろしくお願いいたします。




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映画が公開されるとき「とくダネ」でおすぎが、

土屋アンナは2時間じっくり観られるようなコじゃない、って言ってた。

私も確かに物足りなさを感じたけれどそれは土屋アンナだけのせいではなくて、

この映画の本質が漠然としたイメージでしかなく骨がないように感じてしまったそのせいではないかと思う。

とにかくどうも薄っぺらい印象しか受けなかった。


確かに蜷川実花は私も好きなアーティストの一人で映像の美しさは期待通りだけれど、

写真家の美的価値観だけでストーリーも大して訴えるものでもないような状態では2時間は苦しい。

私的には、ほとんど蜷川実花と椎名林檎のカリスマ的イメージだけで構成されているようなところ。

映像と音楽の雰囲気だけでよいのでしょうか。この場合。

しかもストーリーの大部分が吉原遊郭で展開されるためか、その肝心の映像すらも単調に感じられてしまう。

やっぱり少しガッカリしてしまった。


ただ異色な映画であることには違いない。

現代的な遊郭の描写、主人公の言動、音楽、そしてインパクトある極彩色の世界。

遊郭という舞台を蜷川実花が選んだのは頷ける。

なんとなく日本映画の色のイメージってグレーっぽいし、共感を呼ぶ代表色は桜の淡いピンク色だったりすると思う。

反面、漆の黒と朱、雪の白なんかも日本の文化を象徴する色だと思うし、目の付け所はなるほどなと思った。


極彩色と桜の淡いピンク色はどちらもストーリーの中で象徴的に扱われている。

主人公が遊郭から自由になるとき桜が咲いているわけだけれど、それもどうもベタなようでひとひねり欲しいところでもある。

私が言うまでもないけれど、

やっぱりストーリーに骨がないと映画としては成立しにくい。

そこでやっと登場人物のキャラクターや演技が生き、深みが出るのだろうと思う。

ストーリーがもっと映像くらい斬新だったらよかったのになあ。

批判ばかり書くのはイヤだったけれど、どうしてもそういう感想になってしまった。



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「産む女とは?」

について思考、全く進んでいません。

考える路線を変えてみました。

だいたい結論なんてでるわけがないんです。戯言です。


今ちょっと探したけど見つからない。

確かサリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」だったと思うけど、

「子供は客人として迎えよ。決して所有してはならない。」

っていうくだりがあったのを印象深く覚えている。

子供は親の所有物ではなくて、あくまで一個の人格として対等に扱うべきだと。

別に特別なことを言っているわけではないのだけれど、

「客人として」という表現は今の私の感覚にすごくマッチしてる。

これを読んだときも、もし子供をもつことになったらこれを思い出そうなんて心持だったけど。



単純に意識の上でなら、女が産むことについて理由付けをしようと思えばいくらでもできる。例えば、

この人(もしくは自分)の子供が欲しいからとか、自分の子供として生を受けるなら必ず幸せにできる自信があるからとかいう前向きな考え方から、

なんとも思ってなかったけど妊娠したから、とか妊娠してみたら産むしか道はなかったからとか言う、少し消極的な考え方まで、

それはもう色々あるだろうけど、つまるところ妊娠するなりの行為と胎内で育む過程と出産するという事実は歴然とあるわけで、産むという行為についての責任は全く同じなはず。


ただ所有の度合いという見方から言えば、きっと差が出てくるだろう。

私の場合、生ぬるいことを言ってみれば、

やっぱり本能に抗えずに出産を決意したというところが本音で、

たまたま妊娠したらなんとも不思議にも幸せな気持ちになってしまい、それでは産もう、そもそもこの歳で中絶とかありえないし…っていうような感じで、なんかもう無責任街道まっしぐらのような成り行き任せのこの有様。

大体が避妊とかまともにしてなかっただけにそれほど何も考えてなかったくらいの状態なわけである。

今さら親のエゴとか持ち出して言い訳するつもりは毛頭ないけど、こんな状態だからこそはっきりわかるのは、

子供を親の思い通りにしたいとする欲求って、全く違うだろうということ。

子供を愛するから尊重すべき、ではなく、そもそも親が子供を所有する権利なんてあるわけない。


実際問題、カップルが出来上がるところは自分自信の判断でくっついた好きもの同士なのだしそこはもう完全自業自得の世界だけど、

子供が意識して親を選んで生まれるわけでもなく、かつ親も自分達の得体の知れない遺伝子情報から得体の知れない人間が生まれてくるという状態だけが確かなわけで、

結局当人同士なんにもわかってないわけだ。

神秘主義に傾きたくなるのも当然と言いたいほど。


一個の命がたまたま(もしくは必然的に)自分の子宮に宿り生まれるべくして生まれる。

そういう立場から言えば、客人という表現は実にぴったりなわけで、そちらの方が、

人が生まれるのは親の一存に拠らないという方が、命に対する考え方としてイイ、と思う。

女が産む理由については本能、っていう夢のない一般論でしかないかも知れないけど。





ここに来てふと気付く。

男が、一切登場しない。

男の位置付けってこの場合重要なのかな。

男の人にあまり期待感がないというか、自分本位というか、男についてあまり興味がないというか、なんかそんな感じ?

産むことは女の特権だからそこを焦点にしてしまうからなのか。

それほど重要ではなさそうな気はする。

ユイスマンス(♂)も、超他人事だし。

産む女が馬鹿者なら、つくる男はなんなのさって。

「初めての妊娠と出産」                

「雨森先生が答える産婦人科なんでも相談室」  雨森良彦

「えらぶお産」

「体と心にやさしいナチュラルなお産」  大葉ナナコ

「産んだら無敵」  松本明子

「子作り爆裂伝」  室井祐月

「胎児は天才」  七田眞

などなど………


以上は最近読んだ書籍リスト。

どうも記録する気になれなくてほったらかしでした。


そうです。

妊娠してしまいました。

女ってほんと色々あるものですね。

一大事です。


今までやみくもに仕事ばかりやってきてこれからも当然そのつもりで暮らしてきました私のこと、

充実した20代後半のこの時期に良くも悪くも予期しない妊娠であったことに変わりはなく、自業自得ながらやっと覚悟が出来てきたというところです。

つい最近まで、ポルノグラフィにおける妊娠という事実のありえなさ、とかについて書かれている本ばかり読んでいたのに…。

人生何が起こるかわからないものです。


そしてこの母性の目醒めというか、子供が出来た→うれしい、というこの得体の知れない感情…。

今後の人生設計などとは全く関係なく…。

そしてあれほど不摂生でいつ死んでも平気みたいに暮らしてたくせして、突然好きだった酒とタバコをあっさりやめ、栄養とらないと…なんていうこの私の変貌ぶり。

なぜなのかさっぱりわかりません。

本能のせいだといえばそれまでなのですが、

結局、人って、ただその人のためだけに生まれるものではないのではないかと改めて思ってしまいます。

親の欲求でしかないように思えてしまう。欲しいから手にするという、それだけのことなのでは、と。

妊娠中の体を自ら気遣うのも、ただ健康に産まれてくれれば、とかいう感情も、単に親のエゴでしかないのでは、と思ってしまう。

少なくとも今の私には、子供になんで私を産んだの?と訊かれたらキチンと説明することができないわけです。

このブログでも以前とりあげたユイスマンスの著作に、

「人類の知恵の肝心要は、物事を長びかせることだ。子孫をつくるということも、つまりは血統を引き延ばすことにほかならない。人間の最大の苦が死であるならば、それを産みつづける女というのはなんて馬鹿なのだろう」というような記述があって、少なからずショックを受けたのを覚えているけれども、

ふと、本当にそれだけなのかも知れないなァなんて思うときがあります…。

かといって予期せず妊娠した私が良い例なのだけれども、欲しいからつくって生まれる、というだけのことではもちろんなく、「授かりもの」であることに間違いはないわけだし…。

だからって神秘主義に走るというのも全く腑に落ちないし…。

そしてお産関係の本を読めば読むほど、

「出産は女の本能の仕事」「理性は邪魔もの」というような記述が目立って戸惑う一方。

ん~産む女って一体!?なんてアホなりにふと考えたりしています。


あくまで趣味の記録として続けて行くべきと思っていたブログですが、ちょっと軌道修正する必要が出てきてしまいました。

そして最近はいよいよ下腹部も膨らみ始め、どうも完全に「母体」へと変化していっている様子の私の体と、心境の変化…。

これからどういうふうになっていくかわかりませんが、ご興味おありでしたら(なくても)、こんな私ですが末永くよろしくお願いします。