長き夜の夢石が好きなのは、私自身が石みたいな子だったからかもしれない。 いつもただじっとしていて、物言わぬ子だった。 時々、あまりにも声を出さないので、不図、自分が言葉を忘れてしまったのではないか、 声をなくしたのではないか、と半ば恐怖にとらわれた。 あわてて本を取り出し、黙読してみる。頭の中で声が響く。 読める。だいじょうぶ。 頭の中まで空っぽになり、気がつけば、機械的に体を動かして一日を終えている。 不図、恐怖にとらわれた。 私は存在しているのだろうか。 何も感じず、何も考えず、人との関わりからも外れている私は、 今日一日存在していたのだろうか、と。 パニックに捕らわれるのは、決まって、夜、布団の中にいるとき。 気がつけば寝床の中、闇を見つめている。 今日一日、自分は何をしていたのだろう、どこにいたのだろう、とパニックになる。 何も思い出せない。 のしかかるような闇の中、突然、闇を見つめている我に返る。 今まで何処にもいなかった、我に帰る。 今まで一度も生きていなかった、我に返る。 ・ 闇の中、全てを失くしている自分。 苦痛と懊悩がうねりとなって、身を駆け巡った。 自己不在という苦痛が、肉体的な苦痛となって、波のように押し寄せてきた。 私は、突かれた芋虫のように、可能な限り体を縮め、 ぎゅっと目を瞑り、両手で頭を押さえた。 額の中央に激しい疼痛感を感じる。 頭も、体も、全身が雑巾となっておもいっきり引き絞られているような感覚に侵された。 死んだ音が耳に突き刺さり、朗々と鼓膜に轟いた。 私は耳をぎゅっと押さえた。 いっそ、自分を失くしている自分に気がついて苦痛に苛まれるくらいなら、 自分など、一切無くなってしまえばよかったのだ。 我に返るような自我すらなくなればよかったのだ。 苦痛にさらわれてしまわないように、自分が自分であり続けられるように、 自分の体にしがみついた。 でも、一声も漏らさなかった。歯は食い縛り、口はぎゅっと閉じていた。 在るのは闇と、苦痛だけ。 自分は、とうにこぼれおちていた。 ここにいるのは、私の残骸だ。 それすらも失わないように、ぎゅっと自分を閉じ込めようとした。 夜が来る度に、自己不在の認識の苦痛に苛まれた。 朝が来るたびに、空っぽの、何もない自分を始めた。 ・ 物心ついたころから、始まった痛苦。 生まれたと思ったら、存在していない、という痛苦。 私は、まるで、生まれる前に死んだ子供の幽霊のようだった。 天もなく地もない闇。 始まりも終わりもない闇。 苦痛に支配され、全ての属性を剥ぎ取られた、一個の苦痛に脈打つ生命体。 私。 苦痛が全てを満たし、名前も、過去も未来も無い。 何に由来するのか分からない憎悪と嫌悪不信の感情がどっと本流となって溢れ出た。 世界は死に絶えていた。 人間は、私には開かれない扉、拒否する壁だった。 閉め出された私は見知らぬ路地にさ迷っていた。 今、私と、他者の間に、お互いが理解し合えない、何らかの壁が出来つつあるのを感じた。 私は次第に、自分が闇と光に引き裂かれていくのを感じた。 そして、私の比重は闇に傾いていった。 夜、闇の中で、私は私を取り戻す。 何処にも居ない私を。 けれど、苦痛は、苦痛という形で私をここに居させる。 朝、光の中で、私は、その全てを意識すらせず、記憶にすら止めないような人と関わり、 話し、笑う。 私は闇を身内に飼うようになった。 光の中でも、闇の中の私を棲息させたいと思った。 光の中のものを憎むようになった。 存在を知らず、身内の闇に簡単に目をくらまされ、ぬけぬけと騙され欺かれる光の中の人たち。 彼らこそ、本当のめくらなんじゃないかと思った。 人は誰しも光の届かない闇を身内に飼っている。 なのに、いつ足元を掬われるか分からない足下の闇に、人は光の下で素知らぬ顔をしている。 私は、闇の中でこそ自分を取り戻し、光の下で生きることはできない。 世界を闇にしてしまいたかった。 ・ この夜の記憶は5歳の時のもの。 闇は生き物のようにのしかかり、私を飲み込んだ。 そして、私は闇を飲み込んだ。 この経験は、決定的に自分と人は違うという感情にさせた。 あまりにも怖くて私は記憶を消した。 忘れようと意識を凝らした。作為的に、忘れた。 名づけようもないこの経験による、PTSDになったといえる。思い出したのは最近。 いっそ精神病としてありきたりな病名がついて、 分類され小分けされ、それなりに、世間に認知されたレッテルを張られ、 名前を得、この世界に居場所を得ることができればどんなに楽だろうかと思う。 なのに、私はどこまでいっても、アノニマスな存在なのだと思う。 この経験自体に、私という存在を奪われた。 そして、この経験を、認識する名前など無い。 真実を話しても、誰にも理解されなければ、真実は存在できない。 そして私はいつまでも、誰の目にも見えない存在なのだと思う。 ・ 名前も属性も無く。未来も過去も無く。 ただ闇と汚濁と苦痛だけに支配されているとき。私は誰でもなかった。 天もなく地もない闇はどこでもなく、未来も過去もない闇は、いつでもなかった。 時間と空間の感覚も無くなり己も失せた。 いつでもなく、どこでもなく、だれでもない、 その場所で、わたしは聞こえるはずのないものを聞き、見えるはずのないものを見、 知るはずのないものを知った。 危なげだけど、その時の私には、慰めでさえあった。それは、夢。 目覚めながら見る夢だった。 何もなくて寂しい私を夜毎慰めてくれる寝物語だった。 ・ 後に、自分の状態を知りたくて、精神医学から宗教・哲学の本まで読んだけれど、 このときの自分の状況が一番近かったのは、分裂病症状かとも思ったけど、 ネイティブアメリカンのシャーマンなどが陥るトランス状態というものだったかもしれない。 そこで何を聞き、何を見、何を知ったかは言わない。 言うことが出来ない。 ただ私は、もといた場所へ帰ろうとする引力を感じた。 ・ 生まれる前、私は死んでいた。 この状況で、私はすんなりと、それを肌で感じた。 時間の消え失せたこの場所で、私に一番近い時間は、ここに生きている時間より、 あちらで死んでいた時間だ。 だから、親しんだ其処へ帰りたかった。 切なく、悲しくなるほど、見知らぬここを後にして、 彼の場所へ帰りたいと、切実に望んだ。 その気持ちを引きとどめたものは、悲哀を凌駕した憎悪だった。 滑稽なほど、何をそこまで憎んだのか、知らない。 けれど、今、私が憎む全ての人間に対する意地が、私がここで生きる決意をさせた。 優しく受け止めてくれるだろうあの場所へ泣いて逃げ帰るような癪な真似はするものかと。 ・ 親は私が死んだら泣くだろうけれど、それは世間に見せるための涙だろう。 全てを、嘘と沈黙に葬り去ったまま、死ねるかと思った。 私は、親をかなり批判しているけれど、それは私がもともと人間嫌いだから、 一番身近にいた、他人である親きょうだいや家族を槍玉にあげているのかもしれない。 圧倒的な、無に飲み込まれ、まるで、決して明けない夜の底にいるようだった。 自我は無く、自分にまつわる一切の情報は意味を無くし、ここには時間も無く、どこでもない。 いつでもなく、いつでもあり、どこでもなく、どこででもある。 私は誰でもなく、誰でもある。私はどこにもいない。 どこにでもいる。無とは全てなのだ。 パンドラの箱を開けたように、すべての情報が闇と共に迸る。 ここには生も無く、死も無く、生も死もある。 ただ、私を私たらしめたものは、唯一、苦痛だけだった。 ・ 苦痛と、激しい感情、憎悪だけが、私を冷え冷えとした無の空間に、 木の葉の様に舞い散っていくのを引き留め、今ここにいる温かい肉体の感覚に引き戻した。 私は、憎悪でもなんでもいい、肉体を持ち、今、ここに生きている自分を感じられるものに、 しがみついた。 自分が自分でいられるのが、激しい憎悪によるならば、いくらでもその炎を煽った。 無に溶けて消えてしまう感覚は、何よりも恐ろしかった。 全てが意味を無くす世界。絶望と諦観と寂寥の世界。 全ての意味が凍りついた世界。氷に閉ざされ、温度も色も音も無い世界。何も無い世界。 けれど、抗っても抗っても、夜毎、その世界は私を飲み込みにやってきて、 私の世界は色褪せていった。いつしかそれは私の裡に棲み着いた。 ・ 家族というもの、親というもの、この一番身近にいる他者、人間に纏わる、 私に関係する筈の一切の情報が意味を無くした。 私は、意味を掴みたかった。愛する意味。憎む意味。それすら、私の手を摺り抜けた。 私は人と、傷つけた傷つけられたと、言い合えるほどにも近しい関わりを持てなくなった、 自分の心を感じた。 闇は私の裡に棲み付いて、全ての意味を食らった。 壁は、私と他者を分断し、生と死を分裂し、私から私を隔離した。世界と私を隔絶した。 私はもう、自分が、生きているのか、死んでいるのか、 ここにいるのか、ここにいないのか、分からなかった。 生き物でも、人間でもないような気がした。生きても、死んでもいないような気がした。 私は、今、ここにいない。私は、狭間に落ち込んでしまった。 こちらとあちら、生と死、光と闇、時間の狭間。 生きることも死ぬこともできない狭間に。 ただパンドラの箱のように、闇と汚濁の果てに、最後の希望があったとしたら、 闇と汚濁にまみれた私が最後に欲したのが、光だったことかもしれない。 もういい、と思った。 闇、闇、闇。 いっそ狂ってしおう。 全てを壊そう。 正気も手放そう。 人も殺そう。 全てを失おう。 私がどうなろうと、誰も気にしない。