全能の逆説 【前半】 

 

偶発的全能者

存在が偶発的に全能である場合は逆説は解消できる:

  1. 全能者は自分に持ち上げられない石(あるいは分割できない原子など)を作る。
  2. 全能者はその石を持ち上げられず、全能でない者になる。

本質的に全能である者と違い、偶発的に全能である者は全能でない者になることが可能である。しかし、ここで問題が生ずる。その全能者は本当に全能だったのか、それとも単に強大な能力を持っていただけだったのか (Hoffman)。

本質的全能者

存在が本質的に全能である場合は逆説は解消できる:

  1. その全能者は本質的に全能である、故に全能でない者になることはできない。
  2. さらに、全能者は論理的に不可能なことをすることはできない。
  3. 全能者が持ち上げられない石を創造することは、上記の論理的不可能性にあたる。故に全能者がそのようなことを要求されることはない。
  4. 全能者はそのような石を創造することはできないが、それでも尚全能性を保つ。

この考えでは、必然的に「全能者も論理法則を破ることはできない」という論点を受け入れることになり、確かにこの逆説全体がこのような論点を強力に正当化している。このため、哲学者イブン=ルシュド は全能の逆説をさらに進め、その考えはパリ司教であったエティエンヌ(ステファン)・タンピエ (en:Étienne Tempier) の激しい糾弾を浴びることになった(第一回、第二回断罪 (en:University of Paris (Condemnations) 参照)。石を用いた表現のかわりにイブン=ルシュドは次のように問うた。「神は内角の総和が180度ではない三角形を作ることができるのだろうか。」

注意して欲しいのだが、後の非ユークリッド幾何学の発見はこの逆説を解決するためには役立たない。次のようにも問うことができるからだ。「楕円幾何学の公準が成立するとして、そこで全能者は内角の総和が180度を超えない三角形を作ることができるか。」 いずれの場合も、本当の質問は、全能者は自分の創造した公理系において論理的に導かれる結果を破る能力を持つのか、という点である。

この考えが定式化された歴史的な文脈を概観するためには、ジェームズ・バーク (en:James Burke (science historian)) の en:The Day the Universe Changed を参照されたい。テレビシリーズの第二話またはガイドブックの第二章である。レコンキスタの後、アラビアの科学書や哲学書 — それらは古代ギリシア文献の翻訳であることが多かった — が今度はヨーロッパの言葉に翻訳されて欧州の文化人の間に知られるようになった。イブン=ルシュドの難問がパリに届くと、喧々囂々の論議が巻き起こり、そのためパリ大学の神学生は6年間のストライキに突入した。Burkeはこれを評して「この『神の限界』問題はダイナマイトだった」と言っている。

挙げ句、カトリック神学の主流派もレコンキスタによって得られるようになったギリシャ、アラビアの素材を利用するのに甘んじることになった。多くはトマス・アクィナスの御陰である。アクィナスの『神学大全』は「神は論理を拒否し得ない」と断言している。この点で、12世紀のユダヤ人哲学者にして医師であったモーシェ・ベン=マイモーンは『当惑者への手引き』Guide for the Perplexedの中でアクィナスの思想と同じ主張を行っている。モーシェ・ベン=マイモーンは否定神学(神は<○○ではない>という否定を通してしか記述できないという論法)の信奉者であった。なにがしら神秘的な観点から、否定的なあるいは Apophatic (言葉にすることができない、程の意)な神学の根本には、神の真のエッセンスは語りうるものではなく、神についての肯定的な記述(訳註: 神は<××である>というような記述)はいかなるものであれ冒とく的であり、異端であるリスクを負うという考え方がある。

アメリカ独立戦争のゲリラであったイーサン・アレンは論文「理性: 人間の唯一の神託」 (Reason: The Only Oracle of Man) を書き、そのなかで原罪弁神論他を古典的な啓蒙運動スタイルで論じた。第三章第四節でアレンは、変化し死ぬことは動物を定義する属性であり、「全能性そのもの」も動物を死すべき運命から救うことはできないと書いている。アレンは論ずる、「ものは他のものなしでは存在しえない。谷のない山がいくつあろうか。吾人が存在すると同時に存在せぬとか、あるいはなんであれ他の本質的に矛盾したものに神が影響を与えるなどということも同様である。」 ("the one cannot be without the other, any more than there could be a compact number of mountains without valleys, or that I could exist and not exist at the same time, or that God should effect any other contradiction in nature.") 友人に理神論者呼ばわりされながらもアレンは、「理性」を通してではあるが、神聖なる存在ですら論理に束縛されると論じたのである。

論理的不可能

一部の哲学者は、全能性の定義にデカルトの観点を含めればこの逆説は解消するという姿勢を崩していない。その観点とは全能者は論理的に不可能なことをなし得るというものである:

  1. 全能者は論理的に不可能なことをすることができる。
  2. 全能者は自らが持ち上げられない石を作ることができる。
  3. 全能者は次いでその石を持ち上げる。

思うに、かのような存在は数学的に2足す2を5にすることもできるのであろうし、四角い円を作ることもできるのであろう。この場合その存在の全能性は、本来的に矛盾であるかくの如き記述を乗り越える能力を指す。ハリー・G・フランクファート (en:Harry Frankfurt) の言を用いれば、「もし全能者が論理的に不可能なことを為すことができるならば、彼は彼自身扱うことのできない状況を創造することができるばかりか、一貫性という限界を超えて、自ら扱うことのできない状況を扱うことができるのである。」

だが、この方法で逆説を解消することは問題を孕んでいる。定義それ自体が論理的な一貫性を無化してしまうという点である。逆説は解決できるかもしれない。だが、それには出費を伴う。そのような存在が論理を超越してしまうので、論理はガラクタになり、無用ないし無意味なものになってしまうのだ。アレンの「理性」は、論理を放棄することで逆説を解消する人々を風刺している。アレンは次のように書いている。「もし彼らが理由(あるいは理性)抜きで論議しているなら — 彼ら自身が一貫性を持つにはそうでなければならない — 、彼らは理性的な納得を得ることはできないし、理性的な論議にも値しない。」

ポップカルチャーとユーモア

全能の逆説は、大衆文化の中にも浸透している。様々なメディアの中で、全能の逆説や全能者の存在に関する議論が参照される。

  • ザ・シンプソンズ』のある回で、ホーマーネッド・フランダースにこう質問している。「イエスブリートを自分で食べられない程熱くチンすることができるだろうか。」 この表現は前述のものと異なり物理学方面からの苦情がこないことに注目して欲しい。ブリートの定義には慣性や相対性などといった近代的な概念は関係してこないからである。
  • ネット上の話題「チャック・ノリス・ファクト」の中に「チャック・ノリスは自分でも持ち上げられない程重い石をつくることができる。そしてそれを持ち上げてしまうのだ。クソったれである証明に。」とある。
  • スティーヴン・ホーキングは『時間史概説』 en:A Brief History of Time において、自然法則に関連した創造主の役割を論じたより一般的な議論の中で、全能の逆説を紹介している。後の著作『ブラックホールとベビーユニバース』 Black Holes and Baby Universes の中で冗談めかして、これらの宗教的憶測をもりこんだ御陰で — 最後の行の「その時我らは神の御意を知るであろう。」 "for then we would know the mind of God" を含んで — 恐らく問題の本の売れ行きが二倍くらいになったと語っている。
  • SFテレビドラマ『新スタートレック』に、Qという名前で知られる全能者が登場する。Qに関係した幾つかの回の中で、主にユーモラスな筆致で逆説的結果が追求される。
  • SFテレビドラマ『バビロン5』で、二人の登場人物がこの逆説について語っている:(台詞の引用につき訳出せず)
  • ジョージ・カーリンはナイトクラブに出演する際よく「重い石」の疑問に言及する。近所の悪ガキどもが教会で質問するらしい。[1]
  • サムシング・オーフル」もこの疑問を投げかけた。「神様は、値段が高すぎて自分にも買えないゲーム機を創れるの?」 編集者の答えはこうだった。「お創りになれる。そのゲーム機というのはXbox 360だよ。」
  • ✖✖芳樹は『銀河英雄伝説』の中で登場人物の一人に「全能の神は自分の言うことを聞かない女を作れるか」という表現でこの逆説に言及させている。

参照

References

Where relevant, external links in the following were last verified 19 April 2006.

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