ミーム Ⅰ【冒頭】目次 概要 文化の伝播や情報伝 

 

諸定義

「ミーム」の概念は、ドーキンスが唱えたミーム=情報伝達における単位としての定義を超えて、どのようなものでもミームであると誤解され論じられることが多い。さらに論者によって、また同じ論者でも研究の発展に応じてその指し示す対象にはかなりのずれがあるので、各ミーム論者の理論に対する信憑性の判断にはミーム論争自体への客観的な理解と、文化研究を専門とする人類学をはじめとした社会科学分野への理解が必要である。ここではいくつかの定義を例示する。[5][6][1]

ファッションショー。ドーキンスが『利己的な遺伝子』に述べたミームの定義において、ファッションはミームの一例である。

ドーキンスのミームの定義によると、文化は人の脳から脳へと伝達されるミームからできており、ミームは文化の原子のようなものである。遺伝子は精子と卵子を通じて広まるが、ミームは脳を通じて広まる。したがって、より多くの脳に広まったミームが文化形成に大きく関与していることになる。例えば、ミニスカートはミームであり、それが多くの心に広まることでミニスカートが流行し、文化を形作る。あるいは、歌のメロディはミームであり、人々がそのメロディを口ずさめば多くの心へ広まり、文化となる。このように、この定義により、文化全体を分かりやすい部分に分解し、それぞれがどのように作用しあい、進化していくのかを見ることができる。

この場合、ミームの単位はどのように区切られるかということは自明ではない。例えば交響曲の場合、ある交響曲全体で一つのミームなのか、一つ一つのメロディを一つのミームとするのかといったことである。ドーキンスは、便宜上、複製や淘汰を見ることができる一つの単位を、一つのミームと考えられるとしている[3]。したがって、一つのミームも二つに分けて考えることはでき、二つのミームを一つのまとまりと捉えることも可能である。

ただし、この定義では、なぜあるミームが広がり、あるミームは広がらないのかが、あまり説明できないとリチャード・ブロディは言っている[1]

  • 文化の遺伝単位であり、遺伝子のような働きをする。(ヘンリー・プロトキン)[1]

プロトキンによる定義では、ミームと遺伝子との類似性が強調され、ミームと人の行動との関係は、遺伝子と身体との関係と同じである。つまり、遺伝子の情報が身体の特徴、目の色や髪の毛の色などを決めるのに対し、ミームが行動を決定する。ミームがコンピューターのソフトウェアだとすれば、脳がハードウェアである。つまり、ミームは心のプログラムである。

この定義におけるミームは、文化を分解したものではなく、心の中に存在する。例えば、流行の服がミームなのではなく、「流行の服を着るのはおしゃれである」、「おしゃれな服を着ることは、異性を引きつける」、「異性を引きつけると幸せになれる」などといった知識のようなミームが個人個人の心の中に存在し、これらが一緒に働いて流行の服を着るという行動を起こす。そして他の人の心に「あの服が流行している」というミームを作ることにもなる。服や橋といった文化は、心の中にあるミームが作り出している。

この定義では説明できない点は、知識というものが、人間の心の外にも存在することであるとブロディは言っている。例えば、人間が新しい宇宙の天文学的知識を発見した場合に、それが文化や人の行動に及ぼす影響をどのように考えるかといった問題である[1]

携帯電話で話す男性

  • 文化的に伝播された教訓の単位。ミームは自ら形を作りあげ、記憶に残る複雑なある種の考えになる。ミームは媒介物によって広まっていく。デネット、1995)

この定義ではミームは心の中にあり、心の外に影響を及ぼす。ミームがある心から、外側の媒介物を通じて多くの心に広まっていく様子を、ミームの視点で見ていく。私たち自身が考えを形作るのではなく、考えが自ら「形を作る」というのは、実際にはあり得ない。しかし私たちが「ミームの視点」から考えることで、それにより特定のミームがどのように広まったり、変異を起こしたり、消えるのかを見ることができる。

例えば、「携帯電話を持つ」というミームは、携帯電話という媒介物を通して広まっていく。ある携帯電話で話している人を見た人が、自分もその携帯電話を持とうと考えるようになる、といった具合である。これが何度も繰り返されてミームが広まる。そうした過程における人の振る舞いを見て、なぜその携帯電話が人々を引きつけるのか、あるいは、なぜある携帯電話は人を引きつけないのかを考えることができる[1]

ただし、この定義ではミームの媒介物がはっきりしない場合があるとブロディは言っている。はっきりした媒介物ではなく、人間の複雑な振る舞いを通してミームが広まるケースが多いからである。

  • 心を構成する情報の単位(一つ一つのまとまり)であり、他者の心へ同じ情報がコピーされるように、いろいろな出来事への影響力を持つ。(ブロディ、1996)

ブロディの定義では、ミームは社会における文化を構成しているだけでなく、一人の人間の心も構成している。この定義は、ドーキンス、プロトキン、デネットのそれぞれの定義の大事なポイントを押さえた「実用的定義」である[1] 。

以上の他には以下のような定義がある。

  • 脳内にある情報の単位(ドーキンス、1982)
  • 強い伝染力を持つ知識、アイデア、概念(リンチ、1996)
  • 脳に貯蔵され突然変異によって変質した習性に近い教訓ブラックモア、1999:邦訳106ページ)

歴史

ミームは、「進化論というアルゴリズムに支配される遺伝子」というパラダイムの、文化への適用という形で提案された。リチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』(1976年)で初めてこの語が用いられ、定着した。ドーキンスは「ミーム」という語を文化伝達や模倣の単位という概念を意味する名詞として作り出した。以降、進化論・遺伝学で培われた手法を用いて文化をより客観的に分析するための手段として有用性が検討されている。

文化が遺伝子のような単位で伝達されるという考え方はドーキンス以前にもあった。

  • 旧制度学派経済学者のヴェブレンは、社会や経済の進化がダーウィン的だという考え方を持っていた。
  • 人類学者クロークは、1975年に断片的な「文化的な指示」を人々が模倣しあうことで文化が伝達されると考えた。
  • 最近では、イギリスの生物学者ジュリアン・ハクスリーやドイツの生物学者リヒァルト・ゼーモンらも、20世紀初頭に類似の概念を提唱していたことが指摘されている。とくにゼーモンは1904年に「ムネーメ(mneme)」という用語を提唱している。

さらに歴史をさかのぼると、18世紀啓蒙思想による社会や文化の進歩思想の影響が大きい。もともと生物の進化論は社会の進歩論を自然界に適用したものであり、ミームの考えかたは、進化生物学経由でもう一度この考えかたが社会現象や文化に回帰してきたとみなすこともできる。

また、1985年にはロバート・ボイド(Robert Boyd)とピーター・リチャーソン(Peter Richerson)が、ミームなどの文化的な複製子による文化の進化と、遺伝子による人間の生物的な進化とが相互に影響を与えあって共進化する、という考え方である二重伝承理論(Dual Inhertance Theory, DIT)を提唱し、注目を集めた。日本では佐倉統などがこの理論を研究している。また文化に関心を持つ一部の認知科学者はミームを文化や宗教の理解の助けにしようと試みる。例えばパスカル・ボイヤーは著書『神はなぜいるのか?』で、宗教がなぜ今あるような形で存在するのかを明らかにするためには、どのように個人が持つ「概念」が(ミームとして)記憶され、伝達されるのか人間の認知能力の構造を理解せねばならず、それは認知心理学の実験によってしか知ることができないと述べた。

1995年に、ドーキンスのRiver Out of Eden(『遺伝子の川』[7])が出版された。これは遺伝子進化についての本だが、ミームについても言及している。ドーキンスはこの本で、ミームを「自己複製爆弾」の一つ、ミーム爆弾と呼んでいる。もう一つの自己複製爆弾は生命である。これらを自己複製爆弾と呼ぶのは、自己複製が爆発のように強力な力となるからである。自己複製は、あるものが1つから2つになり、4、8、16、32、64、……と倍々に増えていくことができる(指数関数的増加英語版))。その一つが生命であり、もう一つがミームである。

分類