チューレ空軍基地米軍機墜落事故 Ⅰ【冒頭】目次 概要 チュ…
未回収の爆弾
チューレでの事故にあったものと同型の4発セットのB28FI熱核爆弾
1987年、1988年、そして2000年に再び、デンマークの報道が1発の爆弾が回収されていないと報じた[42]。SACは事故当時4発の爆弾はすべて処分されたと公式に発表していた。しかし、2008年に、BBCが情報公開法を利用し、事故のあった週の機密扱いを解かれた一部文書の開示を求め、そこでは3発の爆弾についてしか説明されていないことを確認した[43]。ある機密扱いを解かれた文書 — 日付は1968年1月 — では、兵器のパラシュートのつり索とともに再び氷結した、氷が黒ずんだ区域について詳しく述べており、「プライマリもしくはセカンダリの爆発のようなもののために何かが溶けたと推測される[43][注釈 7]」としている。1968年7月の報告では、「AECによる回収されたセカンダリ部品の解析では、3個のセカンダリの、ウラニウムの85%、重量比で94%を回収したことが確認された。第4のセカンダリの部品は確認されなかった」と述べられている[44]。
プロジェクト・クレステッドアイス実施中の1968年4月、米軍はスターIII潜航艇シリアルナンバー“78252”を未発見の爆弾捜索のためチューレに送っていた[11] (同様の作戦が2年前のスペイン沖において、失われた核爆弾の回収に成功していたパロマレス米軍機墜落事故を参照) が、この海面下捜索の本当の目的はデンマーク政府には隠された。1968年7月のある文書によれば、「この作戦に目標物あるいは失われた爆弾の部品の捜索を含むという事実は機密事項NOFORN[注釈 8]として扱う[43]」とされ、アメリカ国外には開示されないことを意味した。また、「デンマークとの話し合いでは、この作戦は調査、墜落地点下の海底の再調査とすべきである」とされた[43]。さらなる裏付けが1968年9月のアメリカ原子力委員会(AEC)による中間報告書で明らかになり、そこでは「さらに推測すると、その衝撃特性を考慮した場合、失われた<削除>は重い残骸が集中して観測された地域を越えた所で停止したかもしれない」と述べられていた[39]。
海中捜索で使用されたスターIII潜航艇
海面下の捜索は技術的問題に悩まされ、結局中止された。機密扱いが解かれた文書の図とメモで、事故破片が広がった全地域を捜索するのは不可能だったことが明らかになった。4発の爆弾容器、1個のセカンダリ、および2個のセカンダリに相当する部品が海氷から回収され、1個のセカンダリに相当する部品は確認されなかった[45]。また、武器ケーブルフェアリング、弾頭キャップ、および誘導装置の30×90cmの区画が見つかった[39]。
BBCは事故の事後処理に関わった当局者を追跡取材した。その一人、元ロスアラモス国立研究所の核兵器設計者であるウィリアム・H. チェンバースは、チューレを含む核事故に対処するチームの責任者だった。彼は捜索の中止を決定した背景について、「全部品の回収には諸君がいうように失敗し、これには失望した … 機密部品を我々が発見できなかった場合、その回収は他の者にとっても非常に困難になるからだった」と語った[43]。
余波
クロームドーム作戦
この事件は、この後数年にわたり論争を巻き起こした。それはチューレ空軍基地がグリーンランドの住民に対して核事故および潜在的な超大国の衝突の危険性をもたらしていることを浮き彫りにした[46]。パロマレスでの墜落事故の2年後に起こったこの事故は、その政治的および作戦的リスクから[47]、直ちにクロームドーム作戦を中止するきっかけとなった[48]。スコット・サガンは、機体がチューレ基地に墜落した場合、ミサイル早期警戒システムおよび冗長警戒機が同時に失われ、NORADが誤って核攻撃が開始されたと判断を下す可能性があったとしている[49][50]。1974年、チューレとアメリカ本土の通信手段が、海底通信ケーブルからより信頼性の高い衛星通信に切り換えられた[51]。
グリーンピースによると、アメリカとソ連は、1961年のゴールズボロでのB-52墜落、1966年のパロマレスでのB-52墜落、およびこのチューレでの事故を十分懸念しており、将来の核事故が相手陣営に先制攻撃が進行中であると誤って判断されることを確実に避ける措置をとることで合意したという[52]。その結果、1971年9月30日に2大強国は、「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」にサインし、核戦争の危険が高まるような、核兵器に関する、偶発的、無許可、あるいは原因不明の事件が発生した場合は直ちに相手側に通知することで合意した[53]。また、両者はあらゆる連絡にモスクワ-ワシントン間ホットラインを利用すること、同時にこれをアップグレードすることで合意した[54][55]。
武器安全性
パロマレスおよびチューレの事故 — アメリカの核爆弾の起爆用通常火薬が偶発的に爆発し、核物質を飛散させたただ2つのケース[56] — の後、調査委員会は核兵器で使われる高性能火薬が航空機事故に伴う衝撃に耐えるには科学的安定性が十分でないという結論を下した。また兵器の安全装置の電気回路が、火災の際には信頼性がなくなりショートしてしまうとした。これらの調査から、核兵器のためのより安全な通常火薬および防火ケースの研究がアメリカの科学者によって始められた[57]。
ローレンス・リバモア国立研究所は、「スーザン・テスト」(起爆剤を金属面の間で、ゆすったりはさみこんだりして航空機事故をシミュレートするよう設計された特殊な投射体を使用する標準テスト)を開発した[57]。1979年には、ロスアラモス国立研究所で、核兵器用の新しい安全な爆薬、無反応高性能爆薬(IHE)が開発された[56][58]。物理科学者でアメリカ核兵器設計者のレイ・キダーは、パロマレスおよびチューレ当時、IHEが利用されていればおそらく爆発しなかっただろうと考えている[59]。
チューレゲート
デンマークの非核化方針は、連立政権が1957年にパリでのNATO首脳会議に至るまでの間に核兵器を国内に保有しないことを決定したことに始まった[60][61]。このため、1968年にグリーンランド上空に爆撃機が存在していたという事実は、その方針に反していたという国民の疑念と非難の引き金となった。「ハードヘッド」ミッションの本当の内容は事故当時発表されず[65]、デンマークおよびアメリカ政府は、爆撃機は定常任務でグリーンランド上空にいたのではなく、一回限りの緊急発進だったと主張した[64][66]。これは1990年代に機密扱いを解かれたアメリカの文書の内容と矛盾しており、1995年に「チューレゲート」と呼ばれるデンマークの政治スキャンダルになった[64]。
デンマーク議会は、デンマーク国際問題研究所(DUPI)[注釈 9]に対し、グリーンランド上空を飛行したアメリカの核の履歴と、これに関するチューレ空軍基地の役割についての調査を委嘱した。1997年1月17日に2巻からなる調査結果が公表され[67]、核武装した航空機がグリーンランド上空を頻繁に通過していたが、アメリカは誠意を持って行っていたことが確認された。この報告書は、デンマークの当時の首相H.C.ハンセンがデンマークとアメリカの安全保障協定に曖昧さを持ち込んだことを批判した。ハンセンは、1957年にアメリカ大使とチューレ基地について会談した際に、デンマーク政府の核政策について問い合わせることも話すこともしなかった。ハンセンは、不名誉な公開文書が「特別な種類の軍需品」に関する問題が取り上げられず、それを加えようともしなかったと指摘した会議を引き続き行った[68]。そうすることで、報告書が断定したところでは、彼は暗黙のうちにアメリカがチューレに核兵器を保管することを認めた[69]。
DUPIの報告書はまた、アメリカが1965年までグリーンランドに核兵器を貯蔵しており、外務大臣ニルス・ヘルヴェ・ペダーセンの、兵器はグリーンランドの空中にはあったが地上には決してなかったという発言と矛盾していたことも確認した[64][69]。さらに、これまで極秘だった、アメリカ陸軍がグリーンランド氷床下に最大600発の核ミサイルを貯蔵する計画、プロジェクト・アイスワームの詳細も明らかにした[70]。
作業員の賠償請求
放射能汚染のモニターチェックを行うポンプ作業員。プロジェクト・クレステッドアイスにて。
除去作業に関わったデンマークの作業員は被曝により長期にわたる健康障害が発生していると主張した。彼らはキャンプ・ハンジカーで作業していたのではなかったが、汚染された氷が集積されたタンク・ファームや汚染された残骸が船積みされた港で作業し、除去作業で使われた車両の修理を行っていた[71]。また、現地の大気から被曝した可能性もあった[71]。多くの作業員は、プロジェクト・クレステッドアイスの健康問題が報告された後の数年間検査を受けた。1995年の調査では、1,500名のサンプルのうち410名が癌で死亡していた[72]。
1986年、デンマーク首相ポウル・スリュタは、生存している作業員の放射線検査を委託した。デンマーク臨床疫学研究所は11か月後、プロジェクト・クレステッドアイスの作業員の癌発症率は、プロジェクト以前および以後に基地を訪れた作業員に比べ40%高いと言う結論を出した。また、作業員の癌罹患率が、一般の人に比べ50%高いことも明らかにしたが、被曝が原因とはしなかった[40]。
1987年、ほぼ200名の除去作業員がアメリカを相手取り訴訟を起こした。この訴訟は成功しなかったが、結果的に数百の機密文書が公開されることとなった。それら文書によって、デンマークの作業員よりも多く被曝していると思われるアメリカ空軍の除去作業に関与した人々が、その後の健康問題について調査されていないことが明らかにされた[40]。アメリカはそれ以降それら作業員に対し定期検診を実施した[73]。1997年、デンマーク政府は1,700名の作業員に対し、一人当たり50,000デンマーク・クローネ(2009年時点で60,000クローネ相当)の賠償金を支払った[74]。
2000年にデンマーク政府に対して調査を開始するよう欧州司法裁判所命令が下され[75]、さらに2007年5月に欧州議会が同様の命令を決議をしたにもかかわらず、デンマーク作業員の健康は定期的に検査されることはなかった[73][76]。2008年にチューレ元作業員協会は欧州司法裁判所に提訴した。原告は、デンマーク政府が先の判決への対応を怠ったことが、彼らの病気の発見の遅れにつながり、予後の悪化を招いたと主張した。デンマークは1973年に欧州原子力共同体に加盟しており、従って1968年の事案についてヨーロッパの条約に束縛されず、「事故が発生したときデンマークは加盟国ではなく、従ってその時点での共同体法に束縛されると考えることはできない。デンマークの作業員と事故の影響を受けたと思われる人民に対する義務は、国内法からのみ生じる[77]」とされた。
デンマーク政府は、事故と長期にわたる健康問題との関係を否定した。デンマーク国立放射線防護研究所のカール・ウルバク博士は、「私たちは癌の事故や癌の死亡率に関する非常に優れた記録を所有しており、そして徹底的に調査を行った」と語った[75]。作業員たちは、証拠の欠如が、適切な医学モニタリングの不足に起因していると語った。2008年11月、この訴訟は不成功に終わった[75]。