日本の年金 Ⅲ【内上】保険料 標準的な年金額 有限均衡方式…
財政検証
- 年金事業の収支
- 保険料、国庫負担、給付に要する費用など年金事業の収支について、今後おおむね100年間における見通しを作成し公表する。
- マクロ経済スライドの開始
- 今後おおむね100年間において財政の均衡を保つことができないと見込まれる場合には、マクロ経済スライドの開始年度を定める(現在、この開始年度は政令で2005年度と定められ、マクロ経済スライドは発動し得る状態となっているが、2000年〜2002年度の物価スライドの特例が解消していないため、マクロ経済スライドによる給付費の調整は行われていない)。
- マクロ経済スライドの終了
- マクロ経済スライドを行う必要がなくなったと認められる場合には、マクロ経済スライドの終了年度を定める。
- 調整期間
- マクロ経済スライドによる調整期間中に財政検証を行う場合には、マクロ経済スライドの終了年度の見通しを作成し公表する。
影響を与える要素
年金財政(所得代替率)に影響を与える主な要素は人口関連と経済関連があり、この2つを勘案して将来の給付水準を設定する。
人口関連
- 出生率
- 出生率が低下すると、その世代が被保険者となる約20年後以降に被保険者が減少するため、将来の保険料収入が減少し、所得代替率が低下する。
- 寿命
- 寿命が延びると年金給付費が増大し、所得代替率が低下する。
経済関連
- 運用利回り
- 実質的な運用利回りが上昇すると、運用収入が増加し、所得代替率は上昇する。
- 賃金上昇率
- 実質賃金上昇率が上昇すると、保険料収入はその分上昇するが、年金給付費の延びはそれ以下(物価により改定)のため、所得代替率は上昇する。
- 物価上昇率
- 物価上昇率が低下すると、マクロ経済スライドの調整効果が減殺される(年金の名目額が減少しない範囲で調整する)ため、所得代替率は低下する。
- 厚生年金被保険者数・労働力率
- 被保険者数、労働力率が増加すると、保険料収入が増加し、所得代替率は上昇する。
- 積立金の水準
- 積立金が増加すると、運用収入が増加し、所得代替率は上昇する。
歴史
日本の年金制度は、被用者年金を皮切りに始まっており、現在の第二階部分が先に形成されたという歴史を持っている。
1961年の国民年金制度の本格的な発足によって国民皆年金の体制が実現してから、公的年金制度は何度も改正されているが、1985年の改正は最も大きく、全国民共通で全国民で支える基礎年金制度が創設された。
戦前
日本で最も古い年金は、軍人への恩給であり、1875年に「陸軍武官傷痍扶助及ヒ死亡ノ者祭粢並ニ其家族扶助概則」と「海軍退隠令」、翌1876年に「陸軍恩給令」が公布された。その後、公務員を対象に別々に作られた恩給制度を一本にまとめ、1923年に「恩給法」が制定された[要出典]。
日本初の企業年金は鐘淵紡績(クラシエブランドやカネボウ化粧品などの源流となる、後年カネボウとして知られた紡績会社)の経営者、武藤山治がドイツ鉄鋼メーカの従業員向け福利厚生の小冊子を1904年に入手し、研究後、翌年1905年に始め、その後三井物産なども始めた[要出典]。
民間の公的年金としては、海上労働者を対象とした1939年公布船員保険法を根拠とする年金が実施されている。
それから、厚生省の設置や国民健康保険法の制定など社会保障政策を進めいていた当時の近衛内閣で厚生省官僚だった花澤武夫らによりナチス・ドイツの年金制度を範として労働者年金保険法を1941年3月11日に公布、1942年6月に施行した。導入の際には戦時中ということで大蔵省及び大日本帝国陸軍から反対があったものの、支払いは数十年先のことであり、当面は戦費調達を目的として日本の国民皆年金制度は始まった。
労働者年金の対象事業者は、従業員10人以上の事業所に働く男子筋肉労働者であり、産業は鉱業、工業、運輸業などに限定されていた[8]。年金基金は大蔵省預金部が運用し、完全積立方式で運用された[8]。
労働者年金の給付内容は以下である[8]。
- 養老年金
- 廃疾年金
- 廃疾手当(一時金)
- 遺族年金(10年間)
- 脱退手当
さらに1944年には「厚生年金保険」に改称され、被保険者は男女の事務職や女性労働者にも拡大され、事業所規模も5人以上と改定された[8]。これにより被保険者は832万人まで増大する[8]。