チューレ空軍基地米軍機墜落事故

チューレ空軍基地米軍機墜落事故
Boeing B-52G in flight 061026-F-1234S-021.jpg

墜落した機体と同型のB-52G

出来事の概要
日付 1968年1月21日
概要 機内火災
現場 グリーンランド
チューレ空軍基地(昔のピツフィク)より西7.5マイル (12.1 km)
北緯76度31分40秒西経69度16分55秒座標: 北緯76度31分40秒 西経69度16分55秒[1]
乗客数 無し
乗員数 7人
死者数 1人
生存者数 6人
機種 B-52
運用者 アメリカ合衆国空軍戦略航空軍団第380戦略爆撃航空団
機体記号 58-0188
出発地 プラッツバーグ空軍基地
目的地 プラッツバーグ空軍基地[2]
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チューレ空軍基地米軍機墜落事故(チューレくうぐんきちべいぐんきついらくじこ)は、1968年1月21日に、アメリカ空軍のB-52爆撃機が起こした事故である。チューレ事故あるいはチューレ事件ともいう。

 

目次

1概要
2チューレ監視ミッション
3ブロークン・アロー
4プロジェクト・クレステッドアイス
4.1未回収の爆弾
5余波
5.1クロームドーム作戦
5.2武器安全性
5.3チューレゲート
5.4作業員の賠償請求
5.5科学的研究
5.6証拠と未確認の爆弾の再調査
6注釈
7出典
8参考資料
8.1書籍
8.2定期刊行物・報告書
8.3オンラインリソース
9関連文献
10外部リンク

概要

チューレ空軍基地米軍機墜落事故の位置(グリーンランド内)

チューレ空軍基地

チューレ空軍基地

バフィン湾

バフィン湾

グリーンランド

当時、クロームドーム作戦英語版)で4発の水爆を搭載してアラート任務に就いていたB-52は、バフィン湾上空を飛行中に機内で火災が発生し、クルーは緊急着陸する間もなく脱出を余儀なくされた。6名のクルーは無事に脱出したが、射出座席のなかった1名はパラシュートで脱出しようとしている最中に死亡した。機体はグリーンランド(デンマーク自治領)のチューレ米空軍基地付近、ノーススター湾[注釈 1]海氷上に墜落、核弾頭が破裂・飛散し、大規模な放射能汚染を引き起こした。

アメリカとデンマークは徹底的な除去および回収作業を実施したが、核爆弾1発のセカンダリ(第2段階)部分については作業終了後も不詳のままとなった。アメリカ空軍戦略航空軍団のクロームドーム作戦はこの事故の後、その安全性と政治的リスクが浮き彫りになり、直ちに中止された。また安全手順の見直しが行われ、取扱いにおいてより安定した核爆弾の開発が行われた。

1995年、デンマークにおいて、政府が1957年の非核化方針に反し、グリーンランドへの核兵器の持ち込みを黙認していたという報告書が公開されると、政治スキャンダルとなった。この事件の後数年間、除去作業に関与した作業員は、被曝による疾病に対する賠償請求運動を行った。2009年3月、タイム誌はこの事故を史上最悪の核惨事の一つと評した[3]

チューレ監視ミッション

チューレのBMEWSレドーム

1960年、アメリカ空軍戦略航空軍団(SAC)は、平時に核武装したB-52爆撃機をソ連国境沿いに飛行させる空中待機プログラム、クロームドーム作戦を開始した。この作戦は常時12機以上の爆撃機を飛行させておくというものだった。これら爆撃機がソ連からの先制攻撃時のSACの攻撃力となり[6]、重要な核抑止力になっていた[5]。1961年初頭、B-52は、チューレ空軍基地のソ連のミサイル発射に対応する戦略的に重要な弾道ミサイル早期警戒システム(BMEWS)を視覚監視するため、極秘の「ハードヘッド」ミッション(または「チューレ監視ミッション」)で基地上空も飛行していた[7]。空中から監視することで、もし基地と北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)との通信が途絶した場合に、爆撃機のクルーが途絶の原因が敵の攻撃か技術的トラブルかを判断することができた注釈 2]。監視ミッションは、任命された機体が中間地点であるバフィン湾の北緯75度0分 西経67度30分に達した時点で開始され、基地上空35,000フィート(約10.7km)で、フィギュアエイトのホールディングパターン(8の字の上空待機飛行)に入ることとされていた[7]

1966年、国防長官ロバート・マクナマラは、BMEWSシステムが完全に稼働し、ミサイルの配備によって爆撃機の重要度が減少しており、また1億2千3百万ドル(2009年時点での8億2千8百万ドルに相当)かかる経費を削減できることから、「クロームドーム」の中止を提案したが、SACや統合参謀本部はこれに反対し、4機の爆撃機の小部隊が毎日警戒に当たることで妥協した。計画は縮小され、1966年のスペインでのB-52墜落によりその危険性が浮き彫りになったにもかかわらず、SACは1機をチューレ基地の監視に割り当て続けた。軍以外の当局は具体的な作戦内容について「知る必要性 (Need to know)」がないとして、SACはこの割り当てについて知らせていなかった [9]

ブロークン・アロー

1968年1月21日、ニューヨーク州プラッツバーグ空軍基地第380戦略爆撃航空団のB-52G(コールサイン“HOBO 28”[10]、シリアルナンバー58-0188)は、チューレ基地およびバッフィン湾上空での「ハードヘッド」ミッションを割り当てられた[11]。機には、機長ジョン・ハウグ大尉を含む5名の正規クルー、航法士の交代要員カーティス・クリス大尉[12]、および命令を受けた第3操縦士のアルフレッド・ディマリオ少佐が搭乗した[13]

離陸前、ディマリオは、機体後部の下層デッキにある教官航法士席下の、暖気口の上に3個の布カバーのフォームクッションを置いた。間もなく離陸し、その他のクッションはシートの下に置かれた。飛行は、B-52の自動操縦が故障し手動で操縦していた他は、予定されていたKC-135からの空中給油まで何事もなかった。給油のおよそ1時間後、指定空域を旋回中、ハウグ大尉は副パイロットのスヴィテンコに休憩をとるよう命じた。ハウグのシートにはディマリオがついた。機内は寒く、ヒーターの温度を上げていてもクルーは凍えていた — ディマリオはエンジンマニホールドからの熱をヒーターに加えて機内の温度を上げようと、エンジンの抽気弁を開けた[7]。結果的にヒーターの不調によって、エンジンマニホールドと暖気口との間の温度低下が小さくなることとなった。その後半時間で機内は不快なほど暑くなり[14]、しまってあったクッションが発火した。クルーの一人がゴムの焼ける匂いがすると報告し、火元の捜査が始められた。航法士が2度めに下層コンパートメントを調べたとき、金属箱の後ろに火元を発見した[15]。彼は2本の消火器で消火を試みたが、火を消すことは出来なかった。

ノーススター湾沿いにあるチューレ空軍基地。事故当時海面は海氷で被われていた。

15時22分(EST)、離陸しておよそ6時間後、チューレ基地の140km南方上空にてハウグは緊急事態を宣言した。彼はチューレの航空管制に機内で火災が発生したことを伝え、同空港への緊急着陸の許可を要請した[11]。5分も経たないうちに機内の消火器を使い尽くしてしまい、電力は落ち、コックピットに煙が充満し、パイロットは計器を読むこともできなくなった[17]。状況が悪化したため、機長は着陸は不可能と判断し、クルーに脱出の準備を指示した。彼らはディマリオから、陸地上空を確認する言葉を待った — ディマリオが機がチューレ基地の照明灯の上空を通過しているのを確認したとき[注釈 3]、4名のクルーが脱出し、それにハウグとディマリオが続いた。副パイロットのスヴィテンコは射出座席がなかったために下部ハッチからパラシュートで脱出しようとした時に、頭部に致命傷を負った。

無人となった機体はそのまま北へ飛行し、その後左に180度回頭して15時39分にノーススター湾の海氷の上 — チューレ基地の西およそ12.1km — に墜落した[注釈 4]。4発の1.1メガトン[19]B28FI核爆弾の起爆用高性能爆薬(HE)部分は衝撃で爆発し、放射性物質汚い爆弾並みに広範囲に飛散した[20]。核爆発は起きなかった。墜落後225,000ポンドの燃料は5、6時間にわたり燃えつづけ、その熱で氷床が溶けて残骸や弾薬は海底に沈んだ。

脱出後に氷上で救助された中央銃手カルヴィン・スナップ二等軍曹。

ハウグおよびディマリオは基地にパラシュートで降下し、10分以内に基地司令官と連絡を取った。彼らは基地司令に対し、少なくとも6名のクルーが脱出に成功したこと、機体に4発の核爆弾が搭載されていたことを伝えた[12]。非番のスタッフが残りのクルーの捜索と救助を行うために召集された。3名の生存者が基地から2.4km以内に降下し、2時間以内に救助された[21][22]。最初に脱出し、基地から約9.7km離れた地点に降下したクリス大尉は、気温-30.6℃の中21時間にわたり氷盤上に取り残され低体温症になったが[12]、パラシュートにくるまって生き延びた。

墜落現場の空からの調査で、直後に、氷上に6基のエンジン、タイヤ、および小さな残骸のみ発見された[11]。この事件は、「ブロークン・アロー」(米軍用語で、戦争勃発の危険のない核兵器事故が発生したことを意味する)に指定された。

 

プロジェクト・クレステッドアイス

事故現場の黒ずんだ氷の空中写真。上が墜落地点。

爆発と火災の結果、墜落により破壊された多くの部品が1km×3kmの範囲に飛散した[25]。爆弾倉の一部は墜落地点から3.2km北に離れた場所で発見され、機体の破壊は墜落前から始まっていたことを示していた[14]。墜落地点の氷は崩壊し、一時的に直径およそ50mの範囲で海面が露出した。その地域の氷盤は散乱し、ひっくり返り、そして押し出された[26]。墜落地点の南、120m×670mにわたり機体から漏れた燃料で氷床が黒ずんだ — この区域はJP-4(ジェット燃料)と放射性物質で高度に汚染された[26]。これら物質には、プルトニウムウランアメリシウム、およびチタンが含まれていた。この地域のプルトニウム濃度は380g/m2を記録した[20]

アメリカおよびデンマーク当局は直ちに、残骸の除去および環境被害阻止のための「プロジェクト・クレステッドアイス」(非公式に「ドクター・フリーズラブ」と呼ばれた[29])を発動した[30]。寒く、暗い北極の冬だったが、春になり海氷が溶けて汚染物質が海中に堆積する前に除去作業を完了するよう、多大なプレッシャーがかかった[31]

ベースキャンプ(アメリカ空軍のリチャード・オーヴァートン・ハンジカーが担当となってから「キャンプ・ハンジカー」と名づけられた[25])が事故現場に建設された。キャンプには、ヘリポート、イグルー、発電機、および通信設備が設置された。墜落から4日後の1月25日、アルファ粒子汚染が観測された1.6km×4.8kmの区域を零位線と定められた[32]。この線はそれ以降、人や車両の汚染除去管理に使われた。チューレから現場までの氷上に道路も建設された。最初の道路が酷使されたことから、続いて2本目の(より直行する)道路が作られた[33] 。キャンプには後に、プレハブの建屋、2つのそりが設置された建屋、兵舎、汚染除去トレーラー、トイレが設置された[34]。これら施設は墜落現場での24時間体制での作業を可能にした[34]

現場の天候は過酷を極め、平均気温は-40℃、低いときで-60℃まで下がり、秒速平均40mの強風が伴った。バッテリー駆動の器具は極寒の中では限られた時間しか動かず、作業員はバッテリーパックをコートの中にしまえるようにし、バッテリーの寿命を伸ばそうとした[25]。作業は、太陽光が徐々に現れ始める2月14日まで照明の下で行われた。

プロジェクト・クレステッドアイスにおいて、チューレで鋼鉄のタンクに積み込まれる汚染された氷。

アメリカ空軍は、デンマークの原子力核科学者とともに除去オプションについて検討し、汚染された氷と残骸をアメリカに運び処分することとした。アメリカ空軍作業員は、汚染された氷雪の回収にモーターグレーダーを使用し、現場で木箱に積み込んだ。木箱はチューレ基地付近の「タンク・ファーム」と呼ばれた保管場所に運ばれた。そこで、汚染物質は運搬船に積み込まれる前に鋼鉄のタンクに移された[37]。兵器の残骸は評価のためテキサス州のパンテックス・プラント[注釈 5]へ送られ、タンクはサウスカロライナ州のサバンナリバー・サイト[注釈 6]へ運ばれた。

作戦完了までの9か月間で、両国から700名の専門の作業員と70以上のアメリカ政府機関が現場での除去作業に、しばしば適切な防護服や汚染対策なしで従事した[29]。合計で2,100m3にのぼる汚染液体と30個のタンクに入った汚染物質がタンク・ファームに集められた[39]。アメリカに送る最後のタンクが船に積まれ、プロジェクト・クレステッドアイスは1968年9月13日をもって終了した。この作戦にかかったコストは、940万ドル(2009年時点で5千9百万ドルに相当)にのぼった。

アメリカ空軍は現地要員の鼻腔内組織を採取して大気汚染を調査した。9,837のサンプルが採集され、そのうちの335でアルファ粒子放射能が検出されたが、許容レベルを超えたものはなかった。尿検査も実施されたが、756のサンプルで検出できる濃度のプルトニウムは発見されなかった。

未回収の爆弾