|
この項目には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。 百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。(2015年6月) |
日中戦争 | |
---|---|
![]() |
|
戦争:日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部[注釈 1]となる) | |
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日 | |
場所:中華民国(内蒙古・華北・華中・華南)、ビルマ | |
結果:中華民国の勝利,日本の降伏 | |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
指導者・指揮官 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
|
|
表示 |
![]() |
ウィキクォートに日中戦争に関する引用句集があります。 |
日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(民国紀元26年、昭和12年)から1945年まで、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争である。
日本政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対英米蘭との開戦に伴い、支那事変から対英米蘭戦までを大東亜戦争とした。中華民国側は、抗日戦争と呼称している。
目次
1呼称
1.1時期区分
2遠因・背景
2.1満州権益
2.2中国革命
2.3第一次世界大戦
2.4中国内戦
3満州事変
3.1満州国建国と第一次上海事変
3.2熱河作戦と停戦協定
3.3国際連盟と日本
41935年
4.1華北工作
4.2広田三原則
51936年
5.1対中政策方針の転換
6日中全面戦争
6.1盧溝橋事件
6.2上海事変
6.3和平交渉・南京戦
6.4徐州攻略
6.5漢口・広東攻略
7第二次世界大戦下の中国戦線
7.1汪兆銘南京政府樹立
7.2三国同盟と英米交渉
7.3日米交渉と太平洋戦争
8登場勢力の立場と目的
9参戦勢力の概要
10日中戦争の被害
11戦後処理と戦後史
12評価
13日中戦争を題材とした作品
14脚注
14.1注釈
14.2出典
15参考文献
16関連項目
17外部リンク
呼称
日本における呼称の変遷については「支那事変」を参照
戦争と事変の違いについては「事変」を参照
日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年9月の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。1941年12月9日に蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、東條内閣は10日の閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定した[2]。また、日華事変、日支事変との表記も見られる。
戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかったからである。これは「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間双方が望んだからで、宣戦布告を行わなかった主な理由はアメリカの中立法の発動による経済制裁を避けたかったからである。そして日本側は事態の早期収拾も狙っていた[4]。 中華民国側は物資輸入に問題が生じることを懸念していた[5]。
「日中関係史#近代」および「中国の歴史#中華民国」を参照
現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦·十四年抗戦である[注釈 2]。英語圏では、1894年〜1895年の日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次中国日本戦争")」などと、1937年〜1945年の日中戦争を「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次中国日本戦争")」などと呼称する。
時期区分