世界恐慌
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この項目では、1930年前後に起こった世界恐慌について説明しています。
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1936年3月にドロシア・ラングがカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』の一枚 。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていたこの32歳の母親は、後年に フローレンス・オーウェンズ・トンプソン(英語版)と判明した。
世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(英語: world economic crisis/panic)である[1]。ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という[2]。
世界初の例は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった1857年恐慌[3][4][5]である。
戦間期に重要な位置を占めるものとして、通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさす。大恐慌[6]とも。この記事は通史でいう世界恐慌を述べている。
目次
- 1投資信託による大衆化
- 21929年10月
- 3証券パニックから世界恐慌へ
- 4各国の状況
- 5世界恐慌期の各国工業生産の推移
- 6世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移
- 7社会科学における解釈とその影響
- 8関連項目
- 9脚注
- 10参考文献
世界恐慌
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この項目では、1930年前後に起こった世界恐慌について説明しています。
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1936年3月にドロシア・ラングがカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』の一枚 。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていたこの32歳の母親は、後年に フローレンス・オーウェンズ・トンプソン(英語版)と判明した。
世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(英語: world economic crisis/panic)である[1]。ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という[2]。
世界初の例は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった1857年恐慌[3][4][5]である。
戦間期に重要な位置を占めるものとして、通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさす。大恐慌[6]とも。この記事は通史でいう世界恐慌を述べている。
目次
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- 1投資信託による大衆化
- 21929年10月
- 3証券パニックから世界恐慌へ
- 4各国の状況
- 5世界恐慌期の各国工業生産の推移
- 6世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移
- 7社会科学における解釈とその影響
- 8関連項目
- 9脚注
- 10参考文献
投資信託による大衆化
第一次世界大戦後1920年代のアメリカは、大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、それはヨーロッパに輸出できていた。しかし第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力が、世界的な機械化による生産力の向上についていけなくなった。ソ連がネップで自給自足したことも農業恐慌の背景となった。合衆国では鉄道や石炭産業部門でも過当競争が起こり、自然独占が進もうとしていた。
ダウ平均株価の指数を表すグラフ
アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。投資家は個人であっても株式等を担保とする信用取引により容易に金を借りることができた。株式分割だけでなく投資信託の普及も大衆の市場参加を加速させていた。投信会社等は持株会社を同一のグループに複数設けてレバレッジをかけるようなこともしていた。イーヴァル・クルーガーやサミュエル・インサルの金融帝国がジャズ・エイジを演出していた。公共事業全体が投信の津波にさらわれた。1928年には生命保険会社も優先株への投資を認められた。翌年にかけての投信会社増加率がピークに達した[7]。この結果ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した(最終年下半期込み)。
経済史ではJPモルガンが有名すぎるために電気事業ばかり注目されがちであるが、しかしヴァイマル共和政の賠償支払を促すために化学工業を国際的に振興する仕組みができていたことも忘れてはいけない。クローズド・エンド型の投信会社にはデュポンのクリスティアナ・セキュリティーズ(Christiana Securities)、ベルギー系のソルベー・アメリカン・インベストメント、そして本命のアメリカンIGケミカルといった、欧州と関係の深いものが存在した[7]。クローズド・エンドの投信会社でレバレッジをかけているタイプは、1927年から保有銘柄を減らしてきていた[7]。1927年ジュネーブで行われた世界経済会議では[8]、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。
1928年、ブラジルでコーヒーの過剰生産による恐慌が起こった。
1929年7月30日の報道によると、ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。[9]
1929年8月9日、連邦準備制度は公定歩合を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた[10]。
1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。