世界恐慌の原因 Ⅱ【初序】異説 オーストリア学派
生産に対する衝撃
20世紀最初の30年には資本投資と経済生産高が電化・大量生産・輸送機関の電動化・農業の機械化とともに湧き起こり、生産性の急速な増加により、多くの工場の閉鎖や物価の下落とともに余剰生産能力の増大が見られた[19][29]。結果として、世界恐慌の前の10年には一週の労働時間が僅かに減少していた[30][31][32]。世界恐慌によってさらに多くの工場が閉鎖した[19]。
「我々の述べる[生産性、生産高、雇用の]傾向が1929年以前に完全に明白だったことをあまり極端に強調することはできない。この傾向はこの恐慌の結果では決してないし、世界大戦の結果でもない。そうではなくて、この恐慌はこういった長期にわたる傾向の結果起こった崩壊なのである[33]。」 マリオン・キング・ヒューバート
全米経済研究所の援助により出版されたジェローム『産業の機械化』(1934年)には、機械化が生産高を増大させる傾向を持つのか労働力を解雇する傾向を持つのかは生産物の要求の弾力性に依存すると述べられている[19]。また、生産コスト現象は必ずしも消費者に還元されない。さらに、第一次世界大戦以降ウマやラバが非動物の動力に取って代わられるとともに家畜飼料の需要が減少して農業は不利な影響を被ったと述べられている。「技術的失業」という術語は世界恐慌時の労働環境を表すのに使われるとも『産業の機械化』に記されている[19]。
「戦間期アメリカ合衆国の特徴である失業の増大の幾分かは非弾力的需要に応じた商品を生産する産業の機械化が原因であるといえるだろう[19]。」 フレデリック・C・ウェルズ、1934年
1923年の景気循環の頂点からしばらく後、過剰な労働者が雇用創生と比較して生産性発展により取って代わられており、1925年以降の失業の拡大を引き起こした[34][29]。
アメリカ合衆国の主要産業の生産性の劇的な拡大とその生産品、賃金、労働時間に対する影響が、ブルッキングス研究所の支援により出版された書籍の中で議論されている。[27]
肥料、機械化、品種改良を通じた生産性ショックこそが農産物価格の低下を引き起こしたのだとジョセフ・スティグリッツとブルース・グリーンウォルドが主張した。農家は過剰な労働力供給を加えた土地に押し込められていたのだという[35]。
農産物価格は第一次世界大戦後に低下し始めた。結果的に多くの農家が商売として農業を成り立たせられなくなり、数百の小規模な地銀の倒産を招いた。トラクター、肥料、雑種トウモロコシによる農業生産性は問題の一部にすぎなかった; 他の問題とはウマ・ラバから内燃力輸送機関への転換であった。ウマ・ラバの数は第一次世界大戦以降減少し始め、家畜飼料を生産していた大量の土地が余るようになった[19][36]。
自動車・バスが電車の発展を止めるようになった[37]。
富と収入の不均衡
ウォディル・キャッチングズ、ウィリアム・トゥルファント・フォスター、レックスフォード・タグウェル、アドルフ・バール(、そして後にはジョン・ケネス・ガルブレイス)といった経済学者はフランクリン・ルーズベルトに幾分かの影響を与えた理論を普及させた[38]。その理論とは、経済が、消費者に十分な収入がないにもかかわらず、消費者が購入できる以上の商品を生産してしまった、というものである[39][40][41]。この説によれば、1920年代の賃金の上昇率は生産性の上昇率を下回っていたのである。生産性が増大したことによる恩恵のほとんどは利潤となってしまい、それは株式市場バブルを引き起こしたものの、消費者の購買行動には繋がらなかった。このように、1920年代を通じて富が不平等に分配されたことが世界恐慌を引き起こしたという。
この説によれば、世界恐慌の根本的な原因は、独立企業による賃金・収入の水準が十分な購買力を生み出すに達していないにもかかわらず行われた世界的な過剰投資である。また、政府は富裕層に対する課税を重くすることで収入をより平等にすべきだった、と主張される。政府は、歳入の増加を利用して公共事業を行って雇用を増加させることで経済を「蹴って始動」させられた、という。だがアメリカ合衆国では1932年まで、これとは正反対の経済政策が行われていたのである。大統領退任前年のハーバート・フーヴァーに紹介されフランクリン・ルーズベルトによって採用されることになった<1932年歳入法>や公共事業計画が、購買力を ある程度再分配することに成功したのである[42][43]。
金本位制
世界恐慌の金本位制理論によれば、恐慌の原因は主に、第一次世界大戦後の西側諸国が戦前の値段に基づく金本位制に復帰しようとしたことにである。この説によれば、これによって金融政策がデフレ志向になり10年間にわたってヨーロッパの多くの国の経済の健全性を害し続けたという[要出典]。
この戦後政策に先駆けてインフレ政策がとられていた第一次世界大戦中には、多くのヨーロッパ諸国は戦費の激増により金本位制を廃止せざるを得なかった。この結果、新しく作られた金の供給がインフレを中和させる生産性への投資ではなく戦費に使われたため、インフレが起こった。この説は、大量に導入された金の量によってインフレ率が決まり、それゆえインフレへ導くことが、破壊的・消費的であって経済成長を導かない目的のために造られた新貨幣の総量を減少させるというものである。
戦後アメリカやヨーロッパ諸国が金本位制に復帰した際、多くの国は戦前の水準の金-通貨レートをとった。例えばイギリスでは1925年に金本位法が国会を通過し、これによって金本位制に復帰した際、当時外国為替市場で戦前よりもずっと低い価格でポンドが取引されていたにもかかわらずスターリング・ポンドを戦前と等価に設定するという致命的な決定を行った。当時ジョン・メイナード・ケインズらは、政府はそうすることによって釣り合いが取れていないような賃金再設定を強いているのだと主張してこの決定を批判した。ウィンストン・チャーチルが金本位制に復帰させたことに対するケインズの批判はこれを暗にヴェルサイユ条約の結果と比較するものであった。
戦前と等価にしようという傾向が生まれた理由として一つは、デフレは危険ではないのに対してインフレは、特にヴァイマール共和国に見られるインフレは耐え難い危険であるという当時優勢であった意見があった。もう一つの理由として、額面価額で貸し付けている者は自身が貸し付けたのと同価値の金を回復できる期待があったというものがある[citation needed]。フランスに支払わなければならない巨額の賠償金を支払うための外貨を獲得するのに十分な商品を輸出・販売するために、ドイツは信用を犠牲にした成長の時代に入った。世界の金の溜まる場所としてのアメリカ合衆国はドイツがフランスに償還するための基盤として産業化するための資金を貸し付け、フランスはイギリスおよびアメリカに償還した。この流れはドーズ案に明文化された。
非常に高利の借金をして再融資もできない状態にあるか、低利率ではないときに資本財に融資するための貸し付けに依存している場合、農業のような産業分野にとってデフレは辛いものとなりうる。負債の実質的価値が増加しているのに対して物価はデフレに浸食されていく。資産を現金で保持している者や、資産を投資・購買に充てたり資金を貸し付けたりしようとしている者にとってはデフレは有益である。
ピーター・テミン、ベン・バーナンキ、バリー・アイケングリーンといった経済学者によるより近年の研究は、世界恐慌時に緊縮政策がとられていたことに着目している。この考え方によれば、戦間期の金本位制下での緊縮は最初の経済的ショックを拡大し、恐慌を食い止めるあらゆる行動に対して大きな障害となったという。彼らによれば、最初の不安定化させる衝撃はアメリカ合衆国のウォール街大暴落に起因するが、外国に問題を伝播させたのは金本位制であるという[44]。
彼らの出した結論によると、危機の時代の政策決定者たちは金融政策・財政政策を緩和しようとしたが、そのような行動が、契約上の率で金を交換する義務を維持する国家の能力を脅かしたという。外国の資産を金で買おうとする国際的投資家を引き付けるために、金本位制は高利率を維持することを要求する。そのため、金本位制を廃止しない限り、政府は景気の急落にも手をこまねいているほかない。金本位制をとる全ての国の交換比率を修正することで、外国為替市場が利率の平衡を保つ事だけは保証される。恐慌が悪化すると多くの国が金本位制を廃止し始め、より早く廃止した国々はより少なくデフレの影響を受けてより早くデフレから回復する傾向があった[45]。
自由銀行制派経済学者にしてミルトン・フリードマンの弟子のリチャード・ティンバーレイクは自身の立場を『アメリカ合衆国の金融政策にみられる金本位制と実質手形原理』で明確に説明したが、この論文での彼の主張によると、連邦準備制度は実は金本位制化においてかなりの余裕を持っており、そのことがニューヨーク連邦準備銀行総裁ベンジャミン・ストロングによる1923年から1928年の物価安定政策によって証明されたという。しかし1928年後半にストロングが没すると、ニューヨーク連邦準備銀行の支配権を引き継いだ派閥が、全ての金は実際の商品によって代表されなければならないという実質手形原理を唱道した。ドルに30%のデフレを強いて当然合衆国経済に損害を与えたこの政策は恣意的で、避けられるものであって、金本位制はこれなしに存続できたとティンバーレイクが述べている:
- 金の管理におけるこの移行は決定的であった。ストロングは前任者に従って金本位制という足かせに頓着せずに物価安定政策を実行し、実質手形原理の支持者は自身の理想とする政策を実行する上で同様に束縛を受けずに済んだ。1928年-1929年のシステムポリシーは結果的に物価安定から受動的な実質手形に移行した。「この」金本位制はそれが再出現するのに好都合な時を待つ形式的な見せ掛けでしかない場所で残存した[46]。