日本の貨幣史 Ⅵ【右】銀行制度 国立銀行中央銀行
- 昭和恐慌
「リフレーション#昭和恐慌と高橋財政」も参照
金輸出解禁から4カ月で、2億円の正貨にあたる金が国外に流出した。解禁前と解禁後の平価の差額を利用すれば利益が出るため、解禁直後から政府の予想以上に金が流出した点が原因とされる。金本位制のもとでは、金の流出は国内で流通する通貨の減少につながる。このために日本銀行の通貨発行高は、1930年(昭和5年)1月の14億4300万円から同年9月には11億2400万円と減少した。以前から金輸出解禁に備えてデフレーション政策をとっていた日本では、国内市場の縮小や輸出産業の不振がさらに深刻となる。こうして1930年から昭和恐慌となり、特に農産物においては暴落と凶作が重なって昭和農業恐慌とも呼ばれた。加えて、1931年(昭和6年)の満州事変は日本の国際的信用の低下を呼び、資本逃避を加速させた。同年9月にイギリスが金本位制を停止すると、日本も金本位制を停止するとの予想から円為替レート低下への期待が高まり、国内投資家はドル買いを行い、海外投資家は資本逃避を行った。政府と日本銀行は横浜正金銀行にドル売りの介入をさせ、公定歩合を引き上げて投機を防ごうとするが、同年12月には日本も金輸出を停止して再び管理通貨制度に移行した[124]。1932年(昭和7年)からは再建策として、国債の日銀引き受けによる通貨供給、低金利といった政策が採用された。為替レートの低下は輸出を促進して、早い段階で景気回復へ向かった[125]。しかし財政再建策を進めた高橋是清は、軍事費の削減も計画していたため二・二六事件で暗殺された[126]。
ブロック経済の通貨と軍票
満州国圓(1932年)
「中華民国期の通貨の歴史」も参照
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めた。ブロック経済は英連邦のスターリングブロック(英語版)をはじめとして通貨圏にもとづいており、日本は日本円を中心とする日満支経済ブロックを形成した[127]。日満支経済ブロックには、日本および日本統治下の台湾、朝鮮、満州国、そして中国の中華民国臨時政府、南京国民政府、蒙古連合自治政府が含まれ、各地の中央銀行としては台湾銀行(1899年)、朝鮮銀行(1911年)、満州中央銀行(1932年)、中国連合準備銀行(1938年)、中央儲備銀行(1940年)がある。これらの銀行は通貨として台湾銀行券、朝鮮銀行券、満州国圓、連合準備銀行券、儲備銀行券を発行した。台湾や朝鮮には日本円を導入する案もあったが、混乱発生時に日本に波及するとの理由で採用はされなかった[128]。太平洋戦争の開戦後に日本の統治下に置かれた東南アジアの諸国は、円とは異なる通貨を維持しつつ日本の経済圏に組み込まれた[129]。
- 預け合い契約
日中戦争や太平洋戦争の戦費を調達するため、銀行間で預け合い契約という手法がとられた。連合準備銀行は朝鮮銀行、儲備銀行は横浜正金銀行と契約をした。預け合い契約では、たとえば朝鮮銀行東京支店から北京支店に戦費を送金されると、北京支店はそれを自行の連銀名義の円預金口座に記帳する。一方で連銀は自行の朝鮮銀行名義の連銀券預金口座に同額を記帳する。こうして連銀にある朝鮮銀行の連銀券預け金は戦費にあてられた。預け合い契約によって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した。通貨価値の下落は信用の低下を招き、かわりに蒋介石政権の通貨である法幣が流通した[130]。
- 軍票