ケネディ大統領暗殺事件 Ⅵ【前】ケネディ狙撃の速報と死去報…

 

ケネディ兄弟への通報

司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBIのフーバー長官[注釈 61]からの電話で、狙撃の第一報を知らされた。フーバー長官のもとへ第一報が入ったのは、病院からの報告より早くFBIダラス支局からのもので、長官はすぐにワシントン郊外のヒッコリーヒルのロバートのもとへ電話した。最初に出たエセル夫人からロバートにフーバーからの電話と知った時、それがFBI長官からの初めての電話であったのですぐに重要な話であることを感じたが、フーバーの口調はかなり事務的な雰囲気でそれほど興奮したものでなかった、と後にロバートは苦々しく回想している[29][注釈 62]。その直後にパークランド病院に電話して、警護官のクリント・ヒルを呼び出している。この時に「クリント、そっちで何があった?」「重傷とはどういうことだ?どれくらい悪いんだ?」と聞いてクリント・ヒルは「最悪です」と答えている[30]

エドワード・ケネディはこの日、上院本会議の議長席にいて、13時42分(東部標準時・ダラス時刻12時42分)に通信社からの至急電を持った議会スタッフのリチャード・リーデルより伝えられた。すぐに休会が宣言されてマンスフィールド[注釈 63]民主党院内総務の提案で議会付きの牧師を呼んで祈りを捧げ「…彼の命脈が未だ尽きざらんことを」で言葉を結んだ。この日の審議がなぜ中断されたのか議会議事録には何も記録されていない。

ロバート・ケネディはこの直後にジョン・マコーンCIA長官に電話してすぐ来るように要請し、暗殺のショックがさめやらぬ時に来訪したCIA長官に対して、「CIAが兄を殺したのか?」と詰問し、マコーンは即座に暗殺には無関係だと否定している[31]。2年前の第1次キューバ危機からケネディとCIAの関係は冷え込んでいたのである。この暗殺事件直後に、CIA内部では世界中のCIA支局に打電して暗殺事件に関するどんな些細な情報も含めて情報収集に取りかかっていった。そしてすぐにオズワルドと名乗る男が10月1日にメキシコシティのソ連大使館に電話して申請した旅行ビザについて尋ねていたことを記録したファイルが見つかった。オズワルドが逮捕されたという報道が流れてわずか2分後のことであった[32]。そしてこの日の深夜に興奮状態が続く中で会議が延々6時間続き、「オズワルドがメキシコのソ連大使館を訪ねていたことをCIAは前もって知っていた」ことを聞かされたマコーン長官は激怒した。そしてCIA内部の事件調査はこの後に混乱と猜疑のために挫折して、今日に至るまで消えない疑念の影を残すことになったのである[33]

ホワイトハウスに大統領の死が伝えられたのは、終油の秘蹟を行った時にロイ・ケラーマンからクリント・ヒルに大統領が亡くなったことが伝えられ、その時にちょうどクリント・ヒルがホワイトハウスの大統領付き警護官ジェリー・ベーンと電話中で、ベーンが「どうしたクリント。今ケラーマンは何と言ったんだ?」と電話の向こうで聴いていて、クリントが「大統領が亡くなりました。ジェリー」と伝えたのが最初であった[34]。ほぼ14時(ダラス時刻13時)前後であった。ベーンはこの直後に大統領警護官として、6名の部下に命じて国会議事堂に向かわせ、シークレットサービスの面々は下院議長室に馳せ参じた。ジョン・W・マコーマックの警護であった。大統領が死去して副大統領の昇格後に大統領継承の第1位に繰り上がるのは下院議長であった。テキサス州でもリンドン・ジョンソンの長女ルーシーを自宅に隔離し、オースチンでも次女リンダを大学キャンパスで確保した[35]。この二人はこの時点で大統領令嬢であった。

ケネディ家の動き

ワシントンで留守番の当時6歳であった大統領の愛娘キャロラインには乳母のモード・ショーが「お父様はパトリック[注釈 64]のお世話をしに行ってしまわれた。」と伝えた。ロバート・ケネディはこの後に、空港に向かった。ロバートの妻エセルは沢山の子供たちに彼女自身が知らせるため車で回った[36]

ハイアニスポートの別荘地では父ジョセフと母ローズが、感謝祭が近づいてきたのでいつもの通りケネディ一族が集まってくることを楽しみにしていた。父ジョセフは2年前に脳梗塞に襲われて半身不随となり、母ローズが看病しながら、昼食後に病身の夫を昼寝に寝かしつけたところで、階下で姪のアン・ガーガンが大きな音量でラジオにかじりついていたので注意すると、アンはスタッフから大統領が撃たれたというニュースがあったと聞いたと答えた。ローズは自室に上がり、行ったり来たりして、またアンの部屋に戻るとニュースが一層深刻さを増し、やがてロバートから電話が掛かってきて「もうだめらしい」とローズに伝えた。ローズは夫に告げないことにして室内のあらゆるテレビやラジオのプラグを抜いてジョセフにニュースが聞こえないようにした[37]。しばらくして大統領専用機から緊急電話が入り、ジョンソン副大統領夫妻からのお悔やみの電話であった[注釈 65]

この時に父ジョセフには誰も知らせなかったが、暗殺されたこの日のうちに、エドワード議員と妹ユーニスがハイアニスポートにやって来た。父にジョンの死を告げたのは妹ユーニスで「お父さん、事故があったのよ。でもジャックは大丈夫よ。ジャックは事故にあったのよ。ああ お父さん ジャックは死んでしまったわ。ジャックは死んだけど天国にいるわ。ああ神様 お父さん ジャックは大丈夫。そうよね。」とショックで打ちひしがれた心のままに父に伝えていた[38][注釈 66]

父ジョセフ・パトリック・ケネディはずっとテレビの前に座っていた。そして国葬には結局参列出来なかった。

ケネディ家の人間でジョンの死を伝えられなかった人がローズマリー・ケネディを除いてもう1人いた。母ローズの実母メアリーでこの時98歳であった。ローズの厳命で事件を一切伝えないこととした。テレビも見ず新聞も読まない日々の彼女にとって翌年亡くなるまで孫のジョンはずっとアメリカ大統領であった[39]

空港への遺体搬送

14時前に、遺体をダラスで解剖しようとするダラス警察のアール・ローズ検視官と、首都ワシントンに遺体を一刻も早く搬送しようとするシークレット・サービスのロイ・ケラーマンらとの間で10〜15分間、一悶着があった。大統領が暗殺されてもテキサス州法が適用[注釈 67]されて遺体の解剖はテキサス州で行うと説明しても、シークレット・サービスにとっては何よりも遺体をワシントンに戻すことが優先されると考えていた。結局ローズ検視官[注釈 68]は引き下がった[注釈 69]。そして後に彼は遺体解剖はやはりダラスで行うべきであった、遺体を州外に持ち出したことが陰謀説を生み出していると語っている[40]。そしてこのことは皮肉にもワシントンに戻ってから司法解剖を行ったベセスダ海軍病院の病理医も後に同じ意見であった。

14時05分にケネディ大統領の遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。死去の発表から30分過ぎて全米が重苦しい雰囲気に包まれていた。

ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途