ロッキード事件 最高裁判所判例 外国為替及び外国貿易…Ⅸ【…

 

ロッキード事件にかかわる問題点

不自然な金銭の受け渡し場所

調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中元首相側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中元首相の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラ駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りにあいかねない場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩氏にインタビューしたところ、松岡氏自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡氏は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡氏とほぼ同じ絵を描いており、松岡氏の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した堀田力検事は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている[18][19]

金額の不一致(政治主義裁判)