ロッキード事件 最高裁判所判例 事件名外国為替及び外国貿易… 

 

トライスターの発注

イギリスのエドワード・ヒース首相。

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度召集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べ、「整備が自信を持って推すもの以外は乗れない」との意見もあった。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した。

チャーチ委員会

ロッキードF-104J

田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

明らかになっていく「工作」

児玉誉士夫(前列左、1953年)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャンと元東京駐在事務所代表ジョン・ウイリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル未解決事件でインタビューに応じた丸紅の大久保利春専務の部下の航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P3C対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人シグ片山[5]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[6]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

国会