科学社会学(Social Network Analysis… Ⅱ
クーン「パラダイム」論の影響
トーマス・クーンが1962年に発表した『科学革命の構造』は、通俗的には、科学の歴史がつねに累積的なものではなく、断続的に革命的変化すなわち「パラダイムシフト」が生じると指摘したものとして、科学知識の相対性を主張したもの(少なくとも相対主義的科学観を容認するもの)と見なされている。
またクーンが用いた「パラダイム」という言葉は、一種の流行語としてもちいられ、大雑把に「ある時代の人々のものの見方・考え方」「多くの人々に一般的な思考枠組み」というような一般的意味で用いられるようになった。たとえば『広辞苑』第四版では、「一時代の支配的な物の見方」と定義されている。
こうした俗説は、クーンが科学の擁護者であったこと、またパラダイムという概念を、科学と非科学の間に境界を引くための線引き問題の解決を図るべく、科学という知的活動を他の知的活動と根本的に区別する基本的特徴を指すものとして用いたことを見落としている。従来の、科学と非科学の境界設定基準(たとえばクーンの批判者となるポパーが唱えた反証可能性)は、実のところ占星術といったものまでもパスさせてしまう。クーンは、占星術もテスト可能な予測(反証可能な予測)をなすという意味では論理実証主義や反証主義などの立場からは科学的ということになってしまうが、パラダイム論ではそうした馬鹿げたことが生じないと主張している[4]。
クーンにとっては、科学者は科学者集団 (scientific community) に属するメンバーとして定義されるが、そうした科学者集団の維持=再生産機能を持つものがパラダイムである。こうしてパラダイムは科学者集団との関係で規定されるのである。ある知的活動が科学であるのか否かはその中にパラダイムが存在するかどうかによって決まる。例えば占星術という知的活動が非科学であるのは、その活動によって産出された知識それ自体に問題があるためではなく、その活動に携わる集団を支配するパラダイムが存在しないためである。
クーンのパラダイム論は、上に述べたような点で、単に相対主義的科学観を容認する所説ではなく、科学と非科学の境界設定基準という科学哲学における最大の問題を、科学者集団という社会(学)的概念の導入によって再考する意義をもっていた。
クーンのパラダイム論はまた、科学者の日常的営為がどのようなものであるか、パラダイムという土台の上に累積的に知を積み重ねていく「通常科学」の営みにも光を当てた。普通の大部分の科学者は既存パラダイムの批判的検討や新しいパラダイムの提唱などは行なってはいない。ニュートン力学、相対性理論、量子力学などはそれらの生成期には多くの科学者が関わるが、いったんそうした普遍的理論が確立した後(すなわちパラダイムの確立後)は、そうした普遍理論を前提として(普遍理論の正しさを疑うことなく)「実際の現象をどう説明するのか?」、「未知の新しい現象をどう予測するのか?どう作り出すのか?」といった「パズル解き」的活動に従事するということを強調した。この意味でクーンは,科学研究の現場で実際には何が行われているか、を参与観察の手法で明らかにしていくラボラトリー・スタディーズの、直接の父ではないにせよ、祖父か伯父の役割を果たしたといえる。
パラダイムとは何か
パラダイムとはもともと、人称や時制による語型変化を示す代表的な事例(範例)という意味で使われてきた言語学上の用語であった。言語学においては、例えばLatin Verb Conjugation Paradigms (ラテン語動詞の活用変化のパラダイム)というような形で用いられる。なおクーンはパラダイムという用語を用いるにあたって、こうした言語学上の用法を意識していたと思われる。そのことは、クーンがクーン『科学革命の構造』第二版で追加された「補章 --- 1969年」の中で、パラダイムという用語の言い換えとして用いたdisciplinary matrix(専門母体)の4番目の要素が見本例 (exemplars) である[5]ことに示されている。
クーンによれば、パラダイムとは、ある一定の専門領域の科学者集団の中で共有されている普遍理論、背景的知識価値観、規範、テクニックなどの諸要素から構成される複合的全体であるとされるが、その含意はパラダイムが科学的活動の中心的構成要素として科学者集団の維持=再生産機能を持つものすべてを包含するものであるということである。そのため、マスターマンが「パラダイムの本質」[6]で指摘したように、クーンの用法では、パラダイムは何十という意味内容を持つ多義的な概念となった。パラダイムはむしろ、今後の科学史や科学社会学などの研究のなかで、その内容を精査していくべきものなのである。
科学知識の社会学