人によって引き起こされた核爆発以外の大爆発一覧
人によって引き起こされた核爆発以外の大爆発一覧(ひとによってひきおこされたかくばくはついがいのだいばくはついちらん)では、人為的な関与がある[1]、核爆発以外の大爆発を列挙する。
高性能爆薬の発明以来、数多くの大爆発が人の手により引き起こされてきた。本稿ではそうした大爆発の中でも特に規模の大きな事例を扱う。なお、爆発物の量が爆発の規模に直接相関しているわけではないので、正確な順位付けはもとより不可能であることに留意されたい。
目次
20世紀以前
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
01990年代
112000年代
2010年代
13脚注
14関連項目
20世紀以前
- ペンテコステの大爆発(1578年10月12日)
- ブダ城の倉庫に落雷、保管していた粉類が粉塵爆発し、おおよそ2,000人が死亡。
- デルフト大爆発(en)(1654年5月18日)
- オランダのデルフトで火薬庫に蓄えられていた40tの火薬が爆発、市街の大部分が破壊された。約1,200人が死亡し、1,000人以上の負傷者が出た。
- 大阪城大爆発(1660年7月25日)
- 大阪城の焔硝蔵(火薬庫)に落雷、火薬82tが爆発し29人が死亡、天守や御殿などが損壊。城外でも3名死亡、家屋千数百棟が倒壊。
- ブレシア・聖ナザロ教会爆発事故(1769年8月18日)
- イタリアのブレシアにある聖ナザロ教会に落雷、通廊に保管されていた80トンの火薬に引火して爆発、都市の1/6が破壊され、3,000人の死者を出す大事故となった。この事故がきっかけでローマカトリック教会は各教会の尖塔に避雷針を立てることを許可することとなる。
- ロドス島騎士の宮殿爆発事故(1856年)
- ギリシャのロドス島において騎士団長の居城とされた宮殿に落雷、地下火薬庫が爆発し4,000人が死亡した。
- ワッシュバーン製粉所大爆発(1878年5月2日)
- ミシシッピ州・ミネアポリスにあるワッシュバーン製粉所で粉塵爆発。18人が死亡。その後製粉所は再建されたが、元の遺構はそのまま保存されている。
- ナナイモ鉱山大爆発(1887年5月3日)
- カナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバー島にあるナナイモ鉱山第1炭坑で、おそらく爆薬を仕掛ける際に何らかの不手際により爆発炎上。炭坑は丸一日炎に包まれ、炭坑夫150名が死亡した。犠牲者のうち53名は中国人労働者だった。
1910年代
- ブラック・トム大爆発(1916年7月30日)
- ニュージャージー州ジャージーシティでジョンソン17号はしけが爆発。これにはヨーロッパへと運ばれる予定の爆発物1,000tが積まれていた。この爆発で自由の女神像が損傷を受け、数名の死者と約100名の負傷者が出た。原因は、軍需品の補給を阻止しようとしたドイツの工作員が放火したことによる。1953年にはドイツ側がこの事件に関して責任を認め、9,500万ドルの賠償金を支払うことに同意した。
イギリス軍によるメシヌの戦いの爆破作戦で破壊されたドイツ側陣地
- メシヌの戦い(1917年6月7日)
- 第一次世界大戦中の1917年、イギリス第2軍は、ベルギーのメシヌの尾根にあるドイツ軍根拠地への攻撃を計画していた。6月7日、ドイツ軍根拠地の地下にトンネルを掘って埋設された19個の巨大な地雷(総計600t)が爆破され、これによりドイツ兵約10,000名が死亡。爆発の音は遠くダブリンにまで響き、チューリッヒでも振動を感じたとされる。しかし、このとき使用された火薬は全て爆発したのではなく、1950年代に落雷により残った火薬の一部が爆発する事故が発生した。現在でも不発の爆薬が現地の尾根に眠っていると思われている。
- ハリファックス大爆発(1917年12月6日)
- カナダのハリファックス港で船同士が衝突。そのうち1隻はピクリン酸を主とする2,600tの爆発物を積んでいた。衝突の際に火災が起き、爆薬を積んだまま火のついた船は埠頭へと流れ着いてそこで爆発した。1,600名が死亡し、ハリファックス中心街の大部分が壊滅した。
1920年代
- オッパウ大爆発(1921年9月21日)
- ドイツのオッパウで4,500tの化学肥料を貯蔵していたサイロが爆発し、560名が死亡、160名が行方不明、2,000名以上が負傷した。爆発の規模はTNT火薬で1-2kt程度と推定され、被害は周囲30kmに及んだ。
1930年代
- ニューロンドンハイスクールガス爆発(1937年3月18日)
- テキサス州ニューロンドンのハイスクールでガス漏れから爆発。生徒311名が死亡。これをきっかけとして天然ガスに着臭してガス漏れを発見しやすくするようになった。
- ヒンデンブルク号爆発事故(1937年5月6日)
- アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故。36名が死亡した。
- 禁野火薬庫爆発事件(1939年3月1日)
- 大阪府枚方市禁野の陸軍禁野火薬庫で起こった爆発事故。砲弾の解体作業中に発火、倉庫内の弾薬に引火し爆発。近隣集落も飛散した砲弾等によって延焼し94名が死亡、602名が負傷した。
1940年代
- テッセンデルロー肥料工場爆発事故(1942年4月29日)
- ベルギーのテッセンデルローにあるテッセンデルロー化学社の肥料工場で、野積みされていた塩化カリウムの山をダイナマイトで崩そうとして誤って硝酸アンモニウムの山を爆発させてしまった事故。硝酸アンモニウム150トンが爆発し、工員と市民合わせて189人が死亡した。
- 横浜港ドイツ軍艦爆発事件(1942年11月30日)
- 横浜港内で起こった爆発事故。ドイツのタンカー・ウッカーマルクが、船倉清掃作業中に火災を起こし、近くの停泊していたドイツの仮装巡洋艦トール他2隻を巻き込んで爆発。ドイツ兵を中心に102名の犠牲者を出し、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた。
- 戦艦陸奥爆沈事件(1943年6月8日)
- 広島湾沖柱島泊地で、戦艦陸奥の錨地変更のための作業を行おうとしていたところ、突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬にして沈没した。陸奥の乗員1,121名が死亡した。
- ボンベイ埠頭大爆発(1944年4月14日)
- ボンベイのヴィクトリア埠頭に停泊中の汽船フォート・スティキーン号で火災が発生。さまざまな物資とともに積み込まれていた1,400tの爆発物に引火し、爆発が起きた。740名が死亡し、1,800名以上が負傷した。
- ポートシカゴの惨事(1944年7月17日)
- カリフォルニア州ポートシカゴで汽船E.A.ブライアン号が爆発した。爆発は、ヨーロッパへと運ぶ予定の弾薬を積み込んでいる最中に起きた。高性能爆薬・焼夷弾・爆雷をはじめとする弾薬4,606tがすでに積み込まれており、貨車上で待機していた残りの429tとともに爆発。これにより船員320名が死亡し、390名が負傷した。死者のうち202名はアフリカ系で、これは第二次世界大戦で死亡したアフリカ系アメリカ人の15%にあたる。
- フォールド大爆発(1944年11月27日)
- イングランド中部スタフォードシャー州にあるイギリス空軍のフォールド地下武器庫で爆発が起きた。3,670tの爆弾が爆発し、公式発表によると78名が死亡した。爆発により、周囲約1.2kmにわたって深さ約120mのクレーターが生じた。1974年に公式の調査結果が発表され、原因は、信管が付いたまま運び出されようとした爆弾が何らかの理由で爆発したものとされた。
- ジョン・バーク爆沈(1944年12月28日)
- ミンドロ島攻略の為にレイテ湾に停泊していた輸送船「ジョン・バーク」に日本海軍の特攻機が突入し、弾薬を満載していた同船は一瞬の後に大爆発を起こして轟沈。乗船していた68人全員が即死し、周囲の艦船にも多数の死傷者が出た。
- 戦艦大和沈没(坊ノ岬沖海戦)(1945年4月7日)
- 旧日本海軍の戦艦大和は鹿児島県坊ノ岬沖合で空襲により大火災を起こし横転、弾薬庫内にあった多数の主砲弾が誘爆して轟沈した。火柱が高さ6,000mまで立ち上った。また近くを飛んでいた米軍機が爆風に巻き込まれて墜落したと言われている。
- 玉栄丸爆発事故(1945年4月23日)
- 鳥取県西伯郡境町(現・境港市大正町)の岸壁で火薬を陸揚げ中だった旧日本軍の徴用船「玉栄丸(たまえまる)」(937トン)が爆発。その後の誘爆によって周辺の家屋431戸が倒壊焼失し、115人が死亡、309人が負傷。陸揚げの途中での休憩中に上等兵が投げ捨てたタバコが火薬に引火したのが原因。日本海新聞2007/5/31
- 東安駅爆破事件(密山駅爆破事件とも 1945年8月10日)
- 南満州鉄道東安駅で、関東軍が撤退に当たって弾薬を爆破処分。安全確認を怠ったため、ソ連軍進撃により満州を脱出しようとした満蒙開拓移民のグループが巻き込まれる。死亡・行方不明136人以上。
- 二又トンネル爆発事故(1945年11月12日)
- 福岡県添田町にあった日田彦山線未開通区間の二又トンネルに旧日本軍が保管していた約530tの弾薬を進駐軍の監督下で処分しようとしたところ爆発。トンネルの上の山が吹き飛ばされ、周辺住民147名が死亡、149名が負傷した。
- テキサスシティ大災害(1947年4月16日)
- テキサス州テキサスシティの港で汽船グランドキャンプ号が爆発した。この船には8,500tの硝酸アンモニウムが積まれており、爆発により581名の死者と5,000名以上の負傷者が出た。
- ヘルゴラント島(1947年4月18日)
- イギリス海軍の技術者はヘルゴラント島全体を破壊することにより、島に残された旧ドイツ軍の防御設備を一挙に片付けようとした。「ブリティッシュ・バン」(あるいは「ビッグ・バン」)と呼ばれるこの計画では、第二次世界大戦で余剰した4,061t(一説には6,800t)の弾薬が島の各所に配置され、爆破された。防御設備の大部分は破壊されたが、島自体は残った。1952年に島はドイツに返還され、その後は修復を経て、現在では観光地となっている。
爆発事故直後のBASFルートヴィヒスハーフェン工場
- ルートヴィヒスハーフェン爆発事故(1948年7月28日)
- ドイツ・ルートヴィヒスハーフェンで操業中のBASF工場で、ジメチルエーテルを積載していたタンク車が爆発。周囲にあった溶剤や化学肥料・塗料に次々と誘爆し、ライン川を挟んだマンハイムにまで被害が及んだ。207人が死亡、3,818人が負傷。
- 伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故(1948年8月6日)
- 米軍統治下の伊江島で、5インチロケット砲弾約5,000発(125t)を積載した米軍の弾薬輸送船が接岸時に爆発、死者107人、負傷者70人を出す米軍統治下で最大の事故となった[2]。
- プリュム火薬庫爆発事故(1949年7月15日)
- ラインラント=プファルツ州のプリュムでジークフリート線の爆破解体に使用する予定だった火薬が爆発、プリュム市街地はほぼ全壊し12人が死亡。