アメリカ合衆国領土の変遷 Ⅰ 目次 一般的な注釈
18世紀
- 1789年3月4日
アメリカ合衆国憲法が発効となり新しい国家ができた。州によって憲法を批准した日付は異なるが、地図は単純化のために最終結果のみ示した。
アメリカ合衆国は1783年9月3日のパリ条約でイギリスからの独立を果たし、13植民地は独立した主権国家 (state) となった。境界は条約第2条で規定されたが、2つの大きな問題を持っていた。第一に、条約では中部北辺の境界は「ウッズ湖から真西に伸び、ミシシッピ川に至る線」とされたが、ミシシッピ川の水源はその線のずっと南にあり、つまりそこで終わってしまっているのでウッズ湖から真西に伸びる線ではミシシッピ川に突き当たらない。このことは条約制定当時には判っていなかったが、実際の境界はウッズ湖から真南に伸び、ミシシッピ川に突き当たる線となった。
現在の国境に慣れた者にとっては幾つかの特異な点がある。多くの州はイギリス王室から海から海までの土地勅許を得ており、簡単には諦めなかったが、この日までにアメリカ独立戦争で負った負債と引き換えに連邦政府に対してその土地を譲渡した。しかし、ジョージア州が譲渡したのはだいぶ遅くなってからであり、コネチカット州は大部分を譲渡したがその西部保留地だけは残した。バージニア州はオハイオ川の北と西の領土の領有権を譲渡したが、この土地が非自治的領域になった。ノースカロライナ州もその西部郡部に対する領有権を譲渡したが、連邦議会がそれを正式に認めたのは1790年になってからだった。ニューヨーク州はエリー三角形に対する領有権主張を連邦政府に譲った。この時点でジョージア州とバージニア州を除き全ての州は現在の姿になった。ただし、前述のように小さな問題は幾つか発生した。
西フロリダはアメリカ合衆国が主張したよりもさらに北の境界を主張した。その境界はスペインがイギリスに譲渡したときに北緯31度線だった。イギリスはその境界を後に32度38分まで上げたが、パリ条約でスペイン領フロリダがスペインに戻された時、イギリスは境界が北緯31度線であると主張したのに対し、スペインは北側の境界を主張し続けた。またマサチューセッツ州の北部メイン地区およびスペリオル湖北西の地域の境界は論争が残った。
ペンシルベニア州とデラウェア州の間の楔形領域は17世紀以来論争が続き、両州の間の論点であり続けた。
バーモント共和国は複雑な問題であり、ニューヨーク州とニューハンプシャー州が領有権主張していたが、事実上の未承認独立国として存在していた。
- 1789年8月7日
アメリカ合衆国議会はオハイオ川北西の領土、すなわち北西部領土の自治化を北西部条例の条項で確認した。北西部領土は現在のイリノイ州、インディアナ州、ミシガン州、ミネソタ州北東部、オハイオ州大半およびウィスコンシン州で構成された。北西部領土は1787年7月13日に連合規約下で自治化されており、新憲法下では幾らか修正された。
- 1790年4月2日
アメリカ合衆国議会はノースカロライナ州の西部郡部割譲を認めた。これは前年の1789年12月22日に予め割譲済みとなっていた。これにより、この土地は非自治的領域となった。
- 1790年5月26日
南西部条例によってオハイオ川の南の領土すなわち南西部領土を自治化した。これは現在のテネシー州に相当する。
- 1791年3月4日
バーモント共和国は、その一部についてニューヨーク州とニューハンプシャー州が領有権を主張しており、事実上未承認独立国として存在していたが、合衆国14番目の州、バーモント州として加盟を認められた。
- 1791年9月9日
連邦直轄地としてのコロンビア特別区がメリーランド州とバージニア州から割譲された土地に形成された。バージニア州の土地は1847年に返還された。
- 1792年3月3日
連邦政府はエリー三角形をペンシルベニア州に売却した[9]。
- 1792年6月1日
バージニア州のうちアパラチア山脈より西の郡部が分割され、ケンタッキー州として合衆国15番目の州となった。
- 1796年8月2日
ピンクニー条約、またの名はサンロレンゾ条約で西フロリダ北の境界を北緯31度線で決着した。
- 1796年6月1日
南西部領土はテネシー州として合衆国第16番目の州になった。
- 1798年5月7日
ヤズー土地詐欺事件のために、ジョン・アダムズ大統領が署名した法律で、ジョージア州西部の土地譲渡について同州と交渉する代理人を指名することを可能にした。この法では西フロリダが割譲した地域にミシシッピ準州を創設した。これは現在のミシシッピ州とアラバマ州の南側およそ3分の1に相当するが、西フロリダの一部だったパンハンドル地域は除外された。