近世から近代にかけての世界の一体化 Ⅳ 13植民地の成立

 

 

ロシア、プロイセンの台頭

詳細は「大北方戦争」、「オーストリア継承戦争」、および「七年戦争」を参照

西欧化政策とロシアの発展

オランダの衰退と英仏抗争の時期には北欧、東欧において新たな勢力が台頭した。ロシアのピョートル1世は、雪と氷に閉ざされたロシアの状況を打破すべく不凍港を求めた。そのために自ら西欧に赴いてオランダの造船所で職工を体験し、200人を越す大視察団を派遣して西欧の科学技術を学び、その科学技術をもとに軍備の増強を行い、南方に進出した。黒海方面ではオスマン帝国を撃破し、1699年にはカルロヴィッツ条約を締結してアゾフ海沿岸一帯を獲得した。

また、1700年から20年におよぶ大北方戦争において、カール12世率いる北欧の強国スウェーデンを破り、1721年ニスタット条約によって現在のエストニアラトヴィアリトアニアといったバルト海沿岸諸国、およびカレリアを獲得し、バルト海域の覇権を掌握、ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトール)となった。なお、この戦争中の1703年にバルト海を臨む地に新都を建設し、1712年には内陸のモスクワからサンクトペテルブルク遷都した。東方では、1707年カムチャツカの領有を決め、のちにベーリングを派遣している。

ただし、その一方では、産業の近代化と国家の強大化を推進するための財源確保の必要から、農奴制の強化がはかられていき、この政策は18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代にも継続された。

プロイセンの台頭とオーストリア

ウェストファリア条約により、ドイツの領邦国家には主権が認められた。そのなかで台頭してきたのがベルリンを拠点とし、同条約で東ポンメルンの領有を認められたプロイセンである。18世紀前半の「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフランスから逃亡してきたフランスのカルヴァン派・ユグノー[2]を庇護し国内の産業を育成するかたわら、宮廷費用を圧縮し、また、ユンカーと呼ばれる領主貴族の子弟を高級官僚・将校として採用し、農奴からの徴兵を実施して軍備増強を行った。また、大北方戦争に参加し、プロイセンの版図を拡大した。この戦争でプロイセンは、西ポンメルン、ウーゼドム島ヴォリン島などを獲得している。後を継いだ息子のフリードリヒ2世は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世の死後、娘のマリア・テレジアの家督相続の見返りにシュレージエンの割譲を要求し、フランス、ザクセンバイエルンと同盟を結び、1740年オーストリア継承戦争を起こして、勢力を広げることに成功した。

オーストリアはイギリスとの提携により、プロイセン以外のドイツ諸侯に攻め込まれた領土を取り戻すことに成功したが、マリア・テレジアはプロイセンからシュレージエンを奪回することに執念を燃やした。そこで、ヴェンツェル・アントン・カウニッツの外交政策を採用し、長年の宿敵だったフランスと和解し、ロシアと同盟して反プロイセン包囲網を形成した(外交革命)。ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータと手を組んだので「3枚のペチコート作戦」と呼ばれた。その一方で、プロイセンはイギリスとの同盟によって対抗することとし、1756年、両者の間で七年戦争が勃発した。最終的にはロシアのエリザヴェータ女帝の没後、ドイツ文化に心酔していたピョートル3世がプロイセン側に立場を変えたため、プロイセンは九死に一生を得た形で講和となり、1763年フベルトゥスブルク条約によって、シュレージエンのプロイセン領有が認められることとなった。