世界恐慌 Ⅱ【中半】1929年…証券パニックから世界恐慌へ… 

 

 

イギリス

労働党マクドナルド内閣失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済スターリング・ブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。

日本

1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた[35]

第一次世界大戦の戦勝国の1国となったものの、その後の恐慌、関東大震災昭和金融恐慌昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売り欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁

高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1932年より始まる農山漁村経済更生運動(自力更生運動)、1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、日本の統治下となっていた台湾や、日本の支援を受け建国されたばかりの満州国などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。日中戦争がはじまった1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、太平洋戦争におけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどに対する優勢が続いていた1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし戦時下の統制経済下であり、生活物資不足となっていた。

1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になりはじめ、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[36]

経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された。

フランス

フランスでは世界恐慌の影響を1931年まで逃れる事に成功した[47]。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価も著しく低下した。労働時間給はゆるやかに下降を始め、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6ヶ月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した[48]

フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルク[49]をドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていた[50]が、現金での支払いをもとめ1923年1月11日にルール地方を占領していた[51]。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した[52]

1928年には金為替本位制に復帰したがイギリスが旧平価で復帰したのに対し、フランスはフラン安の新平価で復帰したため経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となり、イギリスを再度の金本位離脱に追い込むことになった[53]

イギリスと同様、ファシズムに対抗するため仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。

イタリア

イタリアの歴史」も参照

イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う[54]

1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。

ドイツ

世界恐慌で国民の生活がどん底に叩き落されたドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチズムの台頭を招く。

ナチス・ドイツの経済」も参照

ドイツは第一次世界大戦の敗戦で連合国から巨額の賠償金を請求され、フランスルール占領にともなうハイパーインフレーションにより、従来の賠償金徴収体制が崩壊したことは明らかとなった。このためアメリカを賠償金支払いプロセスに参加させることで円滑な支払いが可能になり、またアメリカをはじめとする外国資本がドイツに導入され、ドイツ経済は回復傾向が続いていた。

しかし大恐慌によってドイツ経済は深刻な状態へ陥った。アメリカ資本は次々と撤退し、復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。失業率は40パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。さらに1931年3月23日に、ドイツがオーストリアと締結した関税同盟をヴェルサイユ条約違反だと非難したフランスが、制裁としてオーストリアから資本を引き揚げたことがきっかけとなりオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻したことは欧州全体に深刻な金融危機をもたらした。さらに賠償問題を解決するため、新たに検討されたヤング案に対する反発は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の躍進をもたらした。ハインリヒ・ブリューニング首相はこの危機にデフレーション政策で対応しようとしたため、かえって経済危機は深刻となった。ブリューニングが解任された後のフランツ・フォン・パーペン内閣とクルト・フォン・シュライヒャー内閣では、雇用拡大政策による経済安定化を図ろうとしたが、政権基盤が不安定であったために十分な成果を上げられないまま退陣した。

1933年、1月30日ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒトラーらとナチ党は、ドイツ国会議事堂放火事件を口実にドイツ共産党ドイツ社会民主党を弾圧し、ドイツ国内の権力を掌握した(ナチ党の権力掌握)。この間、前内閣で採用された雇用拡大政策と、6月からの第一次ラインハルト計画、9月からのアウトバーンの建設、秘密再軍備などで失業者は急速に減少した。ドイツの恐慌からの回復はイギリスやアメリカに比べても極めて早く、同時代人の注目を集めた[55]。これらの資金はメフォ手形などの手形を利用する特殊なものであった。しかしヒトラーにとって経済政策は「すべてを軍に」向かわせるためのものであり[56]、1936年から開始された第二次四カ年計画では自給自足経済(閉鎖経済)体制と、さらなる軍備拡大が継続された。チェコスロバキア問題などの軍事行動で政府の債務はふくらみ、1938年には2度支払い不能になる事態となった[57]。インフレ圧力が再び強まる中、拡張政策が継続されることになる[57]