ゲーム理論 Ⅻ【外】1990年代・2000年代
日本におけるゲーム理論
角谷静夫による貢献
角谷静夫。大阪出身の数学者。東北帝国大学卒業後に出向いたプリンストン高等研究所ではジョン・フォン・ノイマンのもとで数学の研究をしており、日本人で初めて『ゲームの理論と経済行動』を読んだ人物とされる[343]。
「角谷の不動点定理」も参照
『ゲームの理論と経済行動』を執筆していた1940年頃、フォン・ノイマンらは凸集合の分離定理を用いたミニマックス定理の証明を着想したが、当時の数学は彼らの要請には不十分なものであった。そこで、フォン・ノイマンは当時プリンストン高等研究所に勤務していた日本人数学者角谷静夫に凸集合を用いて一般化されたブラウワーの不動点定理を証明するよう命令し、角谷は1941年に発表した論文 "A generalization of Brouwer's fixed point theorem" においてそれを証明した[206]。
この定理は多値関数に適用するのに非常に適切な形をしており、その後今日まで多くの分野で用いられるようになり、「角谷の不動点定理」として広く知られるようになった[206]。特に、Nash 1950が n 人ゲームのナッシュ均衡の存在を証明するために角谷の不動点を用いたことは有名である[344]。また、1954年にはライオネル・マッケンジーがアロー=ドブルーとは独立に角谷の不動点定理を用いて一般均衡の存在定理を証明している[345][† 55]。 角谷は論文中で自らの不動点定理の応用例として2人ゼロ和ゲームのミニマックス定理を証明しているが、その証明において各プレイヤーが相手の混合戦略に対して最適な混合戦略を選択することが明示的に仮定されている。このことに対して、ハロルド・クーンはジョン・ナッシュの論文集の「解説」の中で「もし角谷静夫が n 人ゲームについて考察を行っていたなら、彼がナッシュ均衡の存在を示してしまっていたであろう」と評価している[346]。
1943年に『ゲームの理論と経済行動』が書き上げられると、フォン・ノイマンは角谷に校正をさせた。フォン・ノイマンは戦時中米国内の日本人は行動を制限されて捕虜のような存在だったのでそういった仕事をさせたと語った[248]。角谷は『ゲームの理論と経済行動』の原稿を読んだ最初の日本人とされる。角谷は戦後、交換船で日本に帰国し大阪大学教授に就任している[343]。
山田雄三による先鞭
一橋大学の山田雄三教授は1935年から1937年にウィーン大学に留学しておりモルゲンシュテルン、メンガー、ワルラスらと交流があったため、山田は1942年に刊行された著書『計画の経済理論』において既にモルゲンシュテルンのゲーム理論的な問題意識を紹介している[347]。1944年に『ゲームの理論と経済行動』が出版されると、山田のもとにはモルゲンシュテルンから本が送られてきた[348]。山田は1947年1月に毎日新聞社編『エコノミスト特集:最近理論経済学の展望』に「経済計画論の一課題:経済的ストラテジーの分析」と題した小論文を寄稿しており[343]、さらに1950年には、当時創刊されたばかりの『季刊理論経済学』の第1巻第2号に「ミニマックス原則の要点」という論文の中で『ゲームの理論と経済行動』の体系を紹介している[348]。これらから、山田によって日本の経済学界にゲーム理論が紹介されたとされている[348]。なお、山田の他にも統計学者の林知己夫が1947年6月にフォン・ノイマンの1928年の研究を紹介する記事を統計数理研究所講究録上に発表しているが、謄写刷で配布されただけであったため他の学者に読まれることはほとんどなかった[343]。
山田は1950年の「ミニマックス原則の要点」の後にも「価格における確定・不確定」(1951年)や「遊戯の理論における価格分析」(1952年)など、ゲーム理論に関する研究論文を発表している[349]。さらに教育者としては1947年には既に一橋大学の学部1年生に対してゼミで『ゲームの理論と経済行動』(原著)を輪読させていた[350]。しかし、オーストリア学派に連なるものとしてゲーム理論を見ていた山田は後のゲーム理論研究の進展に不満を持ち、ゲーム理論の研究を辞めてしまっている。山田は「あんまり数学的すぎてね、途中で放棄しちゃった」と語ったという[351]。
後に日本のゲーム理論研究の中心的役割を担うこととなる鈴木光男は、東北大学経済学部在学中に山田の「ミニマックス原則の要点」を読んだことを契機に、安井琢磨の指導の下、ゲーム理論について卒業論文を書くこととなった[352]。独: Gesellschaftsspieleという単語は1950年頃の独和辞典には掲載されていなかったため、鈴木によって「社会的ゲーム」と訳された[353][† 56]。
当初は多くの日本人経済学者が関心を持っていたゲーム理論であったが、1950年代の日本にとって経済成長が大きな関心の対象であり、ゲーム理論を学ぶ者は次第にほとんどいなくなってしまった。その頃日本で刊行されていた数少ないゲーム理論の書籍として宮澤光一の『ゲームの理論』(1958年)や鈴木光男の『ゲームの理論』(1959年)がある[354]。