アメリカ独立戦争 Ⅶ 1775~終戦への道 南部戦線177…
戦争のコスト
人的損失
アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に天然痘の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している[26]。
推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名とされている。このうち8,000名が戦死で、残りの17,000名が戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名が含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名と推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる[27]。
イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した[28]。
およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。
財政的コスト
イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間950万ポンドとなった。
フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となっていった[29]。
アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使った。これはフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。アメリカは1790年代までかかって最終的に負債を解決した[30]。
イギリスが敗れた要因
アメリカ独立戦争は対立した両勢力が元々は同じ国民であったため、外国の地で戦われた内乱という見方もある。ただし、イギリスは軍事力ではアメリカよりもはるかに優勢で、アメリカはフランスの援助が無ければ戦いとおすことができなかった。不利なアメリカが勝利できた理由の一つとして、アメリカとイギリスの距離が離れていた事が上げられる。イギリスは援軍や物資を大西洋を越えて運ばねばならず、イギリスには港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回ることとなった。一方のアメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、イギリス本国が戦争の情報を受け取るには大西洋を越えなくてはならず、情報が2か月ほど遅れてしまうのでアメリカにいるイギリス軍の将軍がロンドンからの指令を受け取るとき、軍事的な情勢が変わってしまっていることが多々あった[31]。
イギリスがアメリカの反乱を抑えようとした事で新たな問題が誘発された。植民地は広大な範囲に広がっており、戦争の前はそれらは一体ではなかったので戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都を制圧することが戦争の終りを意味していたのに対し、アメリカではイギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したのにもかかわらず、戦争を終らせる事ができなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えられるだけの兵力が必要となる。これはイギリス軍がある地域を占領したとしても、そこを占領するための兵を置かないと革命軍に奪い返されることを意味し、イギリスが占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味していた。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を叩くには十分な兵力を保持していても、その地域の占領を続けるには兵力が足りていなかった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は、兵力をいくつかの戦線に分散させざるを得なくなり、更に大きな問題となった[32]。
また、イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行しなければならなかった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠だったが、これにより軍事的な制限も起こった。戦争初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘の際の効果を削いでいた可能性があった。そしてイギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派の存在を疎遠にし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられている。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍はアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限があっても、それでも潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていく事を防ぐ事はできず、これらの要因によりアメリカにおけるイギリスの支配は終り、革命派は自らの国、アメリカ合衆国を打ち立てた[33]。
武器の性能にも決定的な違いがあり、当時のアメリカではバッファローに遭遇した時のために銃身内部に螺旋の溝をいれたことで、より射程距離、命中精度、破壊力の高いライフル銃を開発することに成功していた。しかしイギリス側は物量に勝るものの、使用されていた銃が旧式だったため敵に十分に近づかなくてはならず大きな犠牲を出すこととなった。