アメリカ独立戦争 Ⅵ 1775~国際戦1778-83年海上…
終戦への道
南部戦線 1778年-1781年
詳細は「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」を参照
独立戦争の最初の3年間というものは、主戦場がアメリカの北部に限られていた。フランスが参戦してからのイギリスは、王党派が多いと思われる南部に目を向けて、王党派の支援を得られればそこを支配できると目論んだ。南部に注力することはイギリス海軍をカリブ海に近く配置させることができ、フランスとスペインの連合軍の脅威を受けているカリブ海植民地を守りやすくするという利点もあった。
イギリス軍のバナスター・タールトン中佐。
1778年12月29日、ニューヨークから転進したクリントンの遠征隊がジョージアのサバンナを占領した。クリントンは続いてサウスカロライナのチャールストンを包囲し、1780年5月2日に陥落させた。クリントンは比較的少ない損失で南部最大の都市と港湾を確保し、南部制圧への道を切り開いた。
南部の大陸軍はチャールストンで5,000名におよぶ戦力が降伏したために崩壊状態となり、残った兵力はバナスター・タールトン中佐の追撃をうけ、1780年5月29日のワックスホーの虐殺でまた新たな損失を蒙った。大陸軍は組織だった作戦行動をできなくなったが、それでもフランシス・マリオンなどのパルチザンによって抗戦が続けられた。コーンウォリスがイギリス軍の指揮官となり、一方大陸軍は北部からホレイショ・ゲイツを送って南部方面軍の指揮官とした。しかし1780年8月16日、ゲイツはキャムデンの戦いで大陸軍始まって以来の大敗を喫し、コーンウォリスにノースカロライナに進軍する道を与えてしまった。
しかし、コーンウォリスにも事態が変わり始めた。10月7日、キングスマウンテンの戦いで彼の一翼を担っていた部隊が完敗した。この戦いは王党派民兵と愛国派民兵の戦いだった。タールトンの部隊も1781年1月17日、大陸軍のダニエル・モーガン将軍とのカウペンスの戦いで決定的な敗北を喫した。
ゲイツの後を継いだナサニエル・グリーン将軍は一連の戦いでイギリス軍を消耗させる戦略に出た。それぞれの戦いはイギリス軍の戦術的勝利になったが、戦略的には得る物がほとんど無かった。グリーンは後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊を鼓舞した。コーンウォリスはグリーンの軍隊を打ち破ることもできないままに、北のバージニアへの進軍を決めた。
1781年3月、ワシントン将軍はラファイエットをバージニア防衛のために派遣した。若きフランス将校は3,200名を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名になっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、7月にイギリス海軍と連携を取ってニューヨークへ戻る道を切り開くためヨークタウンに軍を進めた。
北部と西部の戦線
詳細は「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」および「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」を参照
ジョージ・ロジャース・クラークは冬に290 kmを行軍してカナダ副総督ヘンリー・ハミルトンを捕まえた
アパラチア山脈の西とカナダ国境辺りではアメリカ独立戦争がインディアン戦争と化していた。先住民族の大半がイギリス側に付いた。イロコイ連邦と同じようにチェロキー族やショーニー族は部族によって態度を変えたものもいた。
イギリス軍は同盟した先住民族に武器弾薬を与え、ニューヨーク、ケンタッキーおよびペンシルベニアなどの開拓者集落を襲うことを奨励した。1778年に起こったワイオミング渓谷の虐殺やチェリー渓谷の虐殺に刺激されたワシントンは、1779年の夏にサリバン将軍に兵を与えてニューヨーク西部に遠征させた。サリバンは大きな戦闘もないままに機械的に先住民族の村を破壊し食糧を焼いたので、先住民族はカナダやナイアガラフォールズ地域に逃亡し戻ってくることは無かった。
オハイオやイリノイでは、バージニアの開拓者ジョージ・ロジャース・クラークが1778年にカスカスキアとビンセンズのイギリス軍基地を奪い、この地域の先住民族に対するイギリス軍の影響力を殺ごうとした。デトロイトを本拠にしていたイギリス軍の指揮官ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦を奪い返した後で、1779年2月クラークはハミルトンを急襲し砦とハミルトンを捕獲した(イリノイ方面作戦)。
1782年、グナデンハッテンの虐殺が起こり、ペンシルベニアの民兵が中立であった先住民族約100名を殺した。1782年8月、独立戦争では最後の会戦となったブルーリックスの戦いで約200名のケンタッキー民兵隊が敗れた。
ヨークタウン
詳細は「ヨークタウン方面作戦」および「ヨークタウンの戦い」を参照
ヨークタウンのコーンウォリス将軍降伏
北部、南部および海上の戦いは1781年のヨークタウン1点に収束した。9月早く、フランス海軍はチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊を打ち破り、コーンウォリスの脱出の道を閉ざした。ワシントンはニューヨークから急遽大陸軍とフランス軍を南部に移動させ17,000名の大部隊で10月初めにヨークタウンを包囲した。コーンウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、1781年10月19日、約7,000名の軍隊全員が降伏した。
ヨークタウン降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘が無くなった。この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて3万名の戦力を保有していた[25]。西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスはアメリカに更に増援を送ることも可能であった。
ロンドンではヨークタウン以後に戦争維持派の世論が急速にすぼまり、フレデリック・ノース首相は1782年3月に辞任した。翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月に休戦の予備協定がパリで結ばれたが、正式の休戦は1783年9月3日のパリ条約であった。アメリカ合衆国議会(当時は連合会議)は1784年1月14日にパリ条約を批准した。最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは1783年11月25日であった。
イギリスは同盟していた先住民族と何の相談も無いままパリ条約の交渉を行い、アパラチア山脈からミシシッピー川までの先住民族の土地をアメリカに割譲した。先住民族は不満を抱いたまま、幾つかの条約でアメリカにこれらの土地の割譲を渋々認めたが、これに同意しない種族との紛争が続き、その最大のものは北西インディアン戦争(1785年-1795年)となった。
アメリカ13邦は1787年の憲法制定会議で統一国家としての枠組みをなすアメリカ合衆国憲法を制定、翌年発効した。1789年、新憲法の規定に従って初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンだった。