薔薇戦争【イングランド内乱】Ⅹ 第三次内乱/リチャード3世… 

 

バッキンガム公の反乱

  第三次内乱
  薔薇戦争の位置(イングランド内)

ボズワース

ボズワース

ストーク・フィールド

ストーク・フィールド

ロンドン

ロンドン

ヨーク

ヨーク

ペンブルックシャー

ペンブルック
シャー

カレー

カレー

ブレコン

ブレコン

ダブリン

ダブリン

エクセター

エクセター

コーンウォール

コーンウォール

ストーニー・ストラットフォード

ストーニー・
ストラットフォード

ラドロー

ラドロー

Battle icon active (crossed swords).svg – 会戦
ボズワースの戦い(1485年8月22日)
ストーク・フィールドの戦い(1487年6月16日)

 
ボズワースの戦い(1485年)

Lancashire rose.svg ランカスター派

Yorkshire rose.svg ヨーク派

死亡–戦死または処刑。
Human-process-stop.svg—ランカスター派に寝返り。

バッキンガム公ヘンリー・スタフォード。
William Sherlock画。18世紀。

1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・オブ・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことで、ランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの存在が浮上していた[126]。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟であるが[n 7]、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。マーガレットはエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた[127]。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった[127]

ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは2度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥、その次はエドワード4世治世での要人の一人であるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨークとヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた[128]

リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた[129]

南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。

バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子エドワードを相次いで亡くしていた。リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している[130]

ボズワースの戦い

詳細は「ボズワースの戦い」を参照

ボズワースの戦い。奮戦するリチャード3世。
A Chronicle of England,1864年

バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。リチャード3世はブルターニュ公の重臣に賄賂を贈ってヘンリー・テューダーを裏切るよう唆したが、ヘンリー・テューダーは警告を受けてフランスへ逃亡し、ここで彼は庇護と援助を受けた[131]

大貴族やリチャード3世の官吏までもが自らに同心すると確信したヘンリー・テューダーは、1485年8月1日に亡命者とフランス人傭兵からなる軍勢を率いてアルフルールフランス語版英語版)を出帆し、追い風により6日目にウェールズのペンブルックシャーに上陸した。リチャード3世が任命したウェールズの代官たちは、ヘンリー・テューダーに合流するか、傍観した。ヘンリー・テューダーはウェールズと辺境地方を進軍しつつ支持者を募り、相当数の兵力になった[105]

8月22日、レスタシャーのボズワースでヘンリー・テューダーとリチャード3世の決戦が行われた。両者とも旗色を明らかにしないスタンリー兄弟(スタンリー卿トマスウィリアム英語版))の動静を睨みつつ戦いに入った[105]。リチャード3世軍では初手の矢戦から配下のノーサンバランド伯の軍勢が動かず、乱戦に入るとスタンリー兄弟がヘンリー・テューダーの側につき、リチャード3世軍の側面を突いた[105]。敗北を悟ったリチャード3世は自ら敵陣に突入して、ヘンリー・テューダーの目前にまで迫ったという[132]。リチャード3世は沼地で落馬したところを、ウェールズ人の兵士リース・トーマス英語版)によって長柄斧英語版)で首を斬られて倒れた。

寝返ったスタンリー卿は、戦死したリチャード3世の王冠をヘンリー・テューダーに捧げたと伝えられる[133]。リチャード3世の遺体には汚辱が加えられ、裸にされて騾馬で引き回された[134]