ゲーム理論 Ⅶ【中】不動点アプローチ・公理論的アプローチ
研究史
前史
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ。1710年に出版された著書 Annortatio de quibusdam ludis において相互依存的なゲームを初めて論じた[214][215]。
ゲーム理論が誕生する遥か昔からゲームに関する研究は連綿と行われていた。狩りや耕作の収穫を祈るために、古代社会においてはサイコロやクジを用いた占術が洋の東西を問わず広く行われており、それらに関する逸話は『旧約聖書』や『魏志倭人伝』にも見ることができる[216]。このような、他者の戦略が問題とされないようなゲームは「偶然ゲーム(英: games of chance)」と呼ばれるが、偶然ゲームに関する研究はクラウディウス (BC10 - AD54) の『サイコロで勝つ方法』やスエトニュウス (AD69 - AD141)の『ローマ諸皇帝の生涯』にまで遡ることができる[217]。
ゲームの研究は確率論が誕生した17世紀に大きく進展した。17世紀には、ガリレオ・ガリレイが著書『ダイス・ゲームに関する考察』(1613 - 1623) の中で効用概念について先駆的研究をしている[218]。また、ブレーズ・パスカルはピエール・ド・フェルマーとの往復書簡 (1654年) の中で数学的期待値を最大化する戦略を論じている[218]。これらはいずれも偶然ゲームの研究であり、他者の戦略は問題とされていなかった。17世紀後半になると、微分積分学の創始者としても知られるドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツによって初めて確率のみに決定されないゲームが研究された[215]。ライプニッツによって分析された、ボードゲームのような相手の戦略が問題となるようなゲームは、偶然ゲームと区別して「技術のゲーム (英: games of skill)」と呼ばれる。確率論が偶然ゲームの考察から誕生したのに対して、ゲーム理論は技術のゲームから誕生したと言える[219]。17世紀から18世紀にかけては、イギリスのJames Waldegrave (1684 - 1741) がフランスのPierre Remond de Montmort (1678 - 1719) への書簡の中で混合戦略とミニマックス原理のアイデアを論じている[220][† 44]。
アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー。数学的モデルを用いた経済分析の先駆的研究により、「数理経済学の祖」と称される。
18世紀にはイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームが著書『人性論』(1739年)において国民が私的な動機にしか反応しない場合に公的資源が過剰に使用されることを示唆している。このヒュームの思想は、1968年にアメリカの生物学者ギャレット・ハーディンが雑誌『サイエンス』上に論文 "The Tragedy of the Commons" を発表したことにより広く認知されるようになり、ヒュームの指摘した現象は現代のゲーム理論では「共有地の悲劇」として定式化されている[223]。また18世紀中葉には、アダム・スミスが著書『道徳情操論』(1759年) の中で人間社会を「偉大なるチェス盤」に喩え、「人間社会のゲーム (英: the game of human society)」が成功するための条件を論じている[1]。
19世紀には、フランスの経済学者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーが1838年に発表した論文『富の理論の数学的原理に関する研究』(仏: Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses)において寡占市場のナッシュ均衡を分析した[224]。この枠組みは今日ではクールノー・ゲームと呼ばれている。特殊な複占モデルであったとはいえ、クールノーはナッシュ均衡の定義をゲーム理論成立の一世紀以上前に先触れしており、このクールノーの業績はゲーム理論の古典の一つとして数えられ、同時に、産業組織論の一つの基礎ともなっている[225]。クールノーが生産量を「戦略」と解釈して寡占市場を分析したのに対し、ヨセフ・ベルトラン(英語版)は1883年に発表された論文 "Théorie Mathématique de la Richesse Sociale" において価格が「戦略」であるモデルを分析している[226][† 45]。
20世紀初頭には、ドイツの数学者エルンスト・ツェルメロが「チェスの理論への集合論の応用について」 (独: Uber eine Anwendung der Mengenlehre auf die Theorie des Schachspiels) (1913年)という論文中でチェスのように単純なゲームを分析しており、「ツェルメロの定理」でその名が知られる[228][† 46][† 47]。1920年代にはフランスの数学者エミール・ボレルが三つの論文Borel 1921、Borel 1924、Borel 1927の中でWaldegraveが200年以上前に論じていた混合戦略とミニマックス解を初めて厳密な数学的手法によって分析しようと試みた。ただしボレルは非常に単純なケースのみを分析しており、戦略集合が一般的なケースではミニマックス解が存在しないと予想していたが、この予想は後にフォン・ノイマンによって否定的に証明されている[231]。