薔薇戦争【イングランド内乱】Ⅸ 第二次内乱関係図表 

 

第三次内乱

リチャード3世の簒奪

リチャード3世
作者不明、16世紀後半。
テューダー朝時代の年代記作家によって人格を貶められ、シェイクスピアは醜怪な容姿の稀代の悪人として描き、そのイメージは後世まで続いたが、その短い治世については再評価も行われている。

エドワード4世の残りの治世は比較的平和が保たれた。末弟グロスター公リチャードと長年の友であり支持者でもあったヘイステング卿ウィリアム英語版)には忠誠に対して十分な恩賞が与えられ、おのおの中部と北部の支配を任された。クラレンス公ジョージは次第にエドワード4世と不和になり、1478年に謀反に関与した嫌疑で処刑された。一方、グロスター公はウォリック伯の遺児でエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった。

1483年4月9日にエドワード4世が急死した。国王の死を契機に王妃の親族ウッドヴィル家(弟のリヴァース伯アンソニー英語版)と最初の結婚の時の子のドーセット侯トマス)と古くからの側近のヘースティング卿との対立が表面化した。エドワード4世が死去したとき、王位を継承するエドワード5世はわずか12歳であり、リヴァース伯のもとラドロー城で養育されていた。

死の床にあったエドワード4世は、グロスター公リチャードを護国卿に指名したとされる[114]。エドワード4世が身罷った時、グロスター公は北部に滞在していた。ウッドヴィル一族は宝物庫と武器庫を兼ねていたロンドン塔を確保すると、兵を集めて一種のクーデターを断行した[115]。エドワード4世の死を受けて開かれた国王評議会はウッドヴィル一族によって主導され、ヘースティング卿の反対を退けて、グロスター公を実権のない名誉職に祭り上げる決定をした[116]。危機感を持ったヘースティング卿はグロスター公に、ウッドヴィル家に対抗しうる兵力を持ってロンドンに入るよう伝えた[117]

『ロンドン塔の若き王と王子』
ポール・ドラローシュ画。1831年。
およそ200年後のチャールズ2世の時代にロンドン塔内から2人の子供の遺骨が発見され、これが兄弟のものとされたが、真相は謎のままである[118]

4月28日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、エドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリヴァース伯をストーニー・ストラットフォード英語版)で拘束した[119]。彼らはリヴァース伯に争う意図はないと伝えていたものの、その翌日に彼を投獄してしまい、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨げるために行ったと告げた。リヴァース伯と王の異父兄のリチャード・グレイはヨークシャーのポンテフラクト城英語版)に送られ、6月末に処刑された[120]

5月4日、グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。エリザベス王太后は残りの子とともにウェストミンスター寺院に入り庇護を求めた。6月22日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。6月13日、グロスター公リチャードはヘーステング卿を呼び出すと、裁判なしでその日のうちに処刑した[121]

カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して、9歳になる王弟ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した[122]。子供たちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って、故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、2人の子は庶子であると訴えさせた[123]。議会はこれに同意して、「王たる資格」(Titulus Regius)を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。囚われの身の2人の少年は姿を消し、おそらくはリチャード3世に殺害されたと見られているが[124]、王位継承権に疑義があったヘンリー7世によって殺害されたとする説もある[125]

7月16日に盛大な戴冠式が催され、それからリチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの息子エドワード・オブ・ミドルハムプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の称号を与えた。