三十年戦争 Ⅶ【外】ヴェストファーレン条約の締結・三十年戦…
結果・影響
この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与え、その後のフランス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定することになった(ヴェストファーレン体制)。1648年に締結された史上初の多国間条約であるヴェストファーレン条約(ウェストフェリア条約)によって戦争に最終的な決着がつけられ、この結果、およそ300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定することになった。神聖ローマ帝国は、この後も1806年に解体されるまでの間存続した。オーストリア・ハプスブルク家は帝位は保つが、実態としてはドイツ王ではなくオーストリア大公、後にオーストリア皇帝として18世紀、19世紀を生き延びることとなった。
長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあって人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。伝統的な封建階級は没落し、代わってユンカー層など新たな階層が勃興する契機となり、領邦各国が絶対王政的な主権国家化した。このような中、求心力を弱めたハプスブルク家に代わりホーエンツォレルン家が台頭、ドイツ民族の政治的重心が北上し、後世のドイツ統一における、小ドイツ主義の萌芽となった。
年表
- ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
- デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)
- スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
- フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)
- 1635年、スウェーデン、ポンメルンに撤退。フランス参戦
- 1636年、ヴィットストックの戦い、スウェーデン軍、皇帝軍撃退
- 1637年、第四次ブレダの戦い(英語版)
- 1638年、スウェーデン軍、ボヘミアに侵攻、敗退
- 1638年、ラインフェルデンの戦い(英語版)、ザクセン軍、皇帝軍を撃破
- 1639年、ケムニッツの戦い(ドイツ語版)
- 1639年、フランス軍、スウェーデン軍、ブランデンブルク選帝侯軍、エアフルトで合流
- 1640年、皇帝フェルディナント3世、和平交渉を開始
- 1642年、ブライテンフェルトの戦い(ドイツ語版)、スウェーデン軍、皇帝軍を撃破
- 1642年、ロクロワの戦い、フランス軍、スペイン軍を壊滅させる
- 1644年、フライブルクの戦い、フランス軍、バイエルン軍を撃破
- 1644年、オスナブリュック、ミュンスターで和平会議始まる
- 1645年、ヤンカウの戦い(英語版)、スウェーデン軍、皇帝軍を撃破。プラハに肉薄。第2次ネルトリンゲンの戦い(英語版)、フランス軍、バイエルン軍を撃破
- 1646年、バイエルン選帝侯、降伏
- 1648年、ツスマルシャウゼンの戦い(フランス語版)、フランス・スウェーデン連合軍、皇帝・バイエルン連合軍に勝利。ランスの戦い、フランス軍、スペイン軍を撃破。スウェーデン軍、プラハを包囲
- 1648年、ヴェストファーレン条約締結