百年戦争 Ⅵ【英仏】イングランド/フランス統一王国・ヘンリ…
フランスの逆襲
ジャンヌ・ダルクの出現
シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク(ドミニク・アングル画)
イングランド摂政でヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディー三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。
これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた(オルレアン包囲戦)。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。
オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ6月18日のパテーの戦いに勝利しランスに到達、シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。その後、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュ包囲戦で負傷、捕虜として捕らえられ、1431年5月30日に火刑に処された。
イングランドの撤退
百年戦争の変遷、フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)
1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップ善良公とシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世はブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年にはフランス・イングランド・ブルゴーニュの三者協議においてイングランドの主張を退け、ブルゴーニュとアラスの和約を締結、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。
ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスとシャンパーニュを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、翌1440年に決定に反発した貴族の反乱(プラグリーの乱)を平定、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、平民からは各教会区について一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税が免除されたため、自由(franc)という名前の付いた「自由射手隊(francs archers)」が組織されている。
これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、11月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルテュール・ド・リッシュモン大元帥が指揮を執るフランス軍と激突、このフォルミニーの戦いにおいてイングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方を制圧されてしまった。
シャルル7世はイングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいとすぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌1452年10月にシュルーズベリー伯ジョン・タルボット率いるイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年7月17日、フランス軍はカスティヨンの戦いに大勝しタルボットは戦死、10月19日に再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。
戦争の影響