ベトナム戦争 ⅡⅨ:混血児問題・現在・アメリカとの和解 

 

報道

ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマン新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。さらに西側メディアの感情的かつ一方的な報道は、西側諸国における反戦運動や反米運動の拡大を招いた。日米両国はこのような扇情的な報道に激怒したとされ日本では佐藤栄作首相やライシャワー大使など日本駐留の日米高官も「偏向報道」と批判し、ベトナム戦争を扱った田英夫司会の特番が放送中止に追い込まれるなどの問題も生じた。アメリカでもペンタゴン・ペーパーズ漏洩事件は強い衝撃を与え国論を二分する騒ぎとなった。

ほかに作家の開高健も『ベトナム戦記』(朝日新聞社、1965年)などのルポルタージュを残した。同じく作家の石原慎太郎も読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材している。

報道写真

特に沢田教一が撮影した、戦火を逃れるために川を渡る親子の写真(「安全への逃避」ピューリッツァー賞受賞)、AP通信のカメラマンフィン・コン・ウトが撮影した、ナパーム空爆に遭遇し全裸で逃げ回る少女ファン・ティー・キム・フックの写真(「戦争の恐怖」)などはその後も反戦、反米の象徴として左派勢力の間で重用され、現在では一部参考書にも掲載されている。ほかにエディ・アダムズ英語版)がサイゴン市内で撮影した、私刑で頭を撃たれる瞬間の戦争捕虜を収めた写真(「サイゴンでの処刑」)、一ノ瀬泰造の撮影した、砲撃を飛んで躱す兵士の写真(「安全へのダイブ」)等もある。

テレビ中継

またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。特に「当事国」のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさからテレビ局新聞社が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容については南ベトナムとアメリカのそれと比べ物にならないほどの大幅な制限がかかった。

これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を始めとしてメディアコントロール(従軍記者を使ったエンベディド・レポーティング)に力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。

ベトナム戦争を扱った関連作品

Category:ベトナム戦争を題材とした作品」も参照。

証言
  • 南ベトナムの元司法大臣のチュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)でサイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。
ノンフィクション
  • 『泥と炎のインドシナ 毎日新聞特派員団の現地報告』(1965年大森実監修)[141]
  • ノーマン・メイラー:Why Are We in Vietnam? (1967) (日本語訳『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』ノーマン・メイラー選集、邦高忠二訳、早川書房、1970年)
  • 本多勝一『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968年
  • 本多勝一『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969年
  • シーモア・ハーシュMy Lai 4(1970) (日本語訳『ソンミ―ミライ第四地区における虐殺とその波紋』小田実訳、草思社、 1970年)
  • 本多勝一『北ベトナム』朝日新聞社 1973年
  • 本多勝一『ベンハイ川を越えて』写真石川文洋 朝日新聞社 1974年
  • オリアーナ・ファラーチ『愛と死の戦場 ベトナムに生の意味を求めて』河島英昭訳、朝日新聞社 1974年
  • 早乙女勝元『ベトナムのダーちゃん』童心社 1974年
  • 本多勝一『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975年
  • 早乙女勝元『枯れ葉剤とガーちゃん (写真絵本 物語ベトナムに生きて) 』草の根出版会 2006年
小説
洋画
開戦当時からアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中はドキュメンタリーや『グリーン・ベレー』(ジョン・ウェイン製作・主演)のような米軍の側に立ったプロパガンダ的な映画も制作された。戦後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした戦争犯罪ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く制作された。
テレビ