百年戦争 Ⅴ【英仏】休戦【ランカスター朝の成立】アルマニャ… 

 

イングランド・フランス統一王国

イングランド・フランス二重王国」および「百年戦争の歴史 (1415年-1453年)」も参照

ヘンリー5世の攻勢

アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は、1412年8月10日にノルマンディーに上陸、ボルドーまでの騎行を行った。この時はアルマニャック派が一転してブルゴーニュ派と和睦したため出番の無いイングランド軍は11月に帰国したが、翌1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位する。ヘンリー5世は1414年5月23日にブルゴーニュ派と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した。

内紛によって動きのとれないフランス宮廷を尻目に、イングランド王軍は1415年8月12日にノルマンディー北岸シェフ・ド・コーに再上陸した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド王軍に対して軍を派遣した。1415年10月25日、アジャンクールの戦いでフランス王軍は勢力差4倍以上の軍勢を揃えたが、全く足並みが揃わず大敗を喫した。オルレアン公は捕らえられアルマニャック派は弱体化したが、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。1417年、フランス王軍を破って再上陸したイングランド王軍はルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握した。

アングロ・ブールギニョン同盟

トロワ条約時の勢力範囲、フランス(青)、イングランド(赤)、ブルゴーニュ(紫)、及び主要な戦場、アジャンクール(Azincourt)、オルレアン(Orleans)、パテー(Patay)、フォルミニー(Formigny)、カスティヨン(Castillon)

この間、フランス王家はジャン無怖公が王妃イザボー(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子シャルル(後のシャルル7世)はシャルル6世の子ではないと発言して王太子の王位継承を否定しようとした)に接近して王太子を追放した。無怖公は親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子が無怖公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。

両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘で王太子の姉カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世および彼ら(ヘンリー5世とカトリーヌ)の子をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。

国王代理である王太子とアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子の廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、イングランドは着実に勢力を拡大した。

しかし1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランドはヘンリー6世をイングランド王位とフランス王位(ただしフランス王としての正式な戴冠式は1431年)に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、王太子は10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。