百年戦争 Ⅳ【英仏】フランス王軍の大敗・賢王シャルル5世に…

 

休戦

ランカスター朝の成立

1375年に休戦が合意された後、両国は和平条約締結にむけての交渉がはじまった。1381年5月には、ルーランジャンでエドワード3世の孫で黒太子の息子リチャード2世とシャルル5世の長男シャルル6世との和平交渉がはじめられる。話し合いはまとまらなかったが、この間、休戦の合意はずるずると延長された。

イングランドでは、年少のリチャード2世即位にあたって叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭とする評議会が設置されていたが、1380年に戦費調達のための人頭税課税に端を発するワット・タイラーの乱が勃発、この乱を鎮めたリチャード2世は評議会を廃して親政を宣言した。しかし、彼が寵臣政治を行い、かつ親フランス寄りの立場を採ったため、主戦派の諸侯とイングランド議会は王に閣僚の解任を求めた。とりわけ訴追派貴族と呼ばれる5人の貴族(リチャード2世の叔父でランカスター公の弟・グロスター公トマス・オブ・ウッドストックアランデル伯リチャード・フィッツアランウォリック伯トマス・ド・ビーチャム、リチャード2世の従弟でランカスター公の息子・ダービー伯ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)、ノッティンガム伯(後のノーフォーク公トマス・モウブレー)はリチャード2世との対決も辞さない姿勢を示した。

1387年12月20日、訴追派貴族はラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り、1388年2月3日にはいわゆる無慈悲議会において王の寵臣8人を反逆罪で告発した。これに対して、1392年のアミアン会議や1393年のルーランジャン交渉、1396年のアルドル会議などでフランス王との交渉に忙殺されていたリチャード2世は、交渉が一段落した1397年7月10日、対フランス和平案にも反発したグロスター公、アランデル伯らを捕らえ処刑した。

これらの政情不安の最中、ボリングブルックがリチャード2世に狙われているという陰謀を議会で告訴、リチャード2世がその報復として彼とノーフォーク公を1398年に追放刑に処したことにより、王と議会派諸侯はさらに激しく対立することになった。翌1399年にランカスター公が死去した際、その遺領をボリングブルックへ継がせなかったことも不満の増大に繋がった。

ボリングブルックからランカスター公領を剥奪したことにより、議会派は再び軍事蜂起してリチャード2世を逮捕、1399年9月29日にはリチャード2世は退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された(翌1400年に獄死)。翌日、ボリングブルックがイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立した。

アルマニャック派とブルゴーニュ派の対立

イングランドの一連の内紛によって、フランスとイングランドとの和平交渉は早急にまとめられつつあった。1392年のリチャード2世、シャルル6世の直接会談(アミアン会議)の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。

しかし、和平交渉はイングランドの内紛だけでなく、フランス国内の混乱によるためでもあった。幼少のシャルル6世の後見人となった3人の叔父アンジュー公ルイ1世ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)、母方の伯父に当たるブルボン公ルイ2世らは、国王課税を復活させて財政を私物化した。特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定した豪胆公は、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行った。これに対して1388年、シャルル6世による親政が宣言され、弟のオルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる父の代からの官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。しかし1392年、突如シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。

国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の対立は壮絶な泥仕合となった。当初、王妃イザボー・ド・バヴィエールの愛人であったオルレアン公が財務長官、アキテーヌ総指令となり国政をにぎったが、ブルゴーニュ派は豪胆公の後を継いだブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)によって1405年にパリの軍事制圧を行い、1407年11月23日にはオルレアン公を暗殺して政権を掌握した。しかし、跡目を継いだオルレアン公シャルルの一派は、アルマニャック伯ベルナール7世を頼ってジアン同盟を結びアルマニャック派を形成、ブルゴーニュ派と対立した。両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。