百年戦争 Ⅳ【英仏】フランス王軍の大敗・賢王シャルル5世に…

 

カスティーリャ王国遠征

1366年、シャルル5世はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ2世)を国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これはエンリケ・デ・トラスタマラをエンリケ2世として戴冠させることのほかに、国内で盗賊化している傭兵隊の徴収と、彼らを国外に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。

フランス王の介入によって王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌのエドワード黒太子の元に亡命し、復位を求めた。1366年9月23日、黒太子とペドロ1世の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。

1367年ナヘラの戦いに勝利した黒太子は総大将ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。戦費はペドロ1世の負担だったはずだが、彼は資金不足を理由にこれを果たさず、遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われた。しかし、これはアキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子に対する不服申し立てが行われた。

1369年1月、黒太子にパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子に領地の没収を宣言した。

 

再征服戦争

ベルトラン・デュ・ゲクラン

1370年3月14日、モンティエルの戦いでペドロ1世を討ち取ったゲクランはパリに凱旋し、フランス王軍司令官en)に抜擢される。シャルル5世は会戦を避け、敵の疲労を待って着実に都市を奪回して行く戦法を取った。

同年12月4日、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、ポワトゥー、オニスサントンジュを占拠、7月7日にはポワティエを、7月22日のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍を破った後、9月8日にはラ・ロシェルを陥落させ、イングランド王軍の前線を後退させた。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。

1375年7月1日、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至った。しかし、両陣営は互いに主張を譲らず、1376年には黒太子が、翌1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。

両陣営の動きが膠着する中、1378年12月18日、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあった。また、国内ではラングドックモンペリエで重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月16日に死去した。1381年4月4日、第二次ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の国庫没収(併合)はさけられた。