アメリカ独立戦争Ⅱ1775年4月19日ー1783年9月3日…
北部での戦い 1775年-1780年
マサチューセッツ
詳細は「ボストン方面作戦」を参照
開戦前のボストンでは反抗的活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。
レキシントンの戦い
1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」[15]という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。
民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた[16]。
1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった[17]。
手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアのハリファックスの海軍基地まで移動した[18]。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。
カナダ
詳細は「カナダ侵攻作戦」を参照
ボストン方面で膠着状態に陥ってる間、大陸会議は戦争の主導権を掴もうと他方面で作戦行動を起こした。大陸会議は当初、フランス系カナダ人の領土を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。
カナダに向け2つの遠征隊が派遣されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー准将率いる1,700名の民兵隊は1775年9月16日にタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。合流したモントゴメリー隊とアーノルド隊は12月31日にケベック市を攻撃する(ケベックの戦い)が、カールトンによって完璧に打ち負かされた。その後もアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカ側よりも多くの兵力を擁し、戦線を堅守した。
アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返そうと試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは逆襲に転じ、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破る。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反攻を遅らせることができた。
このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論における支持基盤を失った。「だからアメリカに対する武力行使はこの国のあらゆる階層と職業の人々に快く受け入れられ支持されるのだ」[19]
ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイズンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。