南北朝時代 (日本) Ⅲ【中再】歴史 ・南北朝成立まで・観… 

 

九州の情勢と南北朝合一まで

九州地方では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏仁木義長などの勢力が争いを続けていた。南朝は勢力を強化するために後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返した。観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に足利直義が殺害されると、直冬は中国に去った。延文4年/正平14年(1359年筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸らと北朝方の少弐頼尚少弐直資の父子、大友氏時城井冬綱ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。足利義詮の死に端を発して、九州の南朝勢力は正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こし長門・周防方面へ進軍を開始するものの、大内氏に阻まれ頓挫した。

またこの頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、1372年懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に朝から冊封を受け、「日本国王」となるものの、室町幕府は今川貞世を九州へ派遣して攻勢をかけ大宰府を奪回する。

弘和/永徳・元中/至徳年間に入ると、南朝は動乱初期からその支えとして活躍してきた懐良親王、北畠顕能宗良親王の相次ぐ死と、対北朝強硬路線を通していた長慶天皇の譲位により、衰退を極める事となったが、明徳年間の足利義満による相次ぐ有力守護大名勢力削減により、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。このような情勢の中で1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすること(実際には国衙領はわずかしかなかった)を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。

南北朝合一を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は九州南部に拠る菊池武朝と和睦し、九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。

後南朝

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年正長元年)以後、激化することとなる。

1443年嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主金蔵主兄弟をかついで神璽宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年長禄元年)に南朝後裔の自天王忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。

最後に史料に登場するのは、『勝山記』に1499年明応8年)霜月(11月)、伊豆国三島市に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。