百年戦争 Ⅲ【英仏】戦争の経過・宣戦・フランドルの反乱・ブ…
フランス王軍の大敗
クレシーの戦い
ポワティエの戦い
1346年7月、イングランド王軍はノルマンディーに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。
勢いづいたイングランド王軍は港町カレーを陥落させ(カレー包囲戦)、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ2世(ルイ・ド・マール)がフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。
両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。
1350年にフィリップ6世が死去、息子のジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー(ポワティエ)、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。
1356年、エドワード3世の長男エドワード黒太子率いるイングランド王軍はアキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュから出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子はこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。
賢王シャルル5世による国家内政の転換
詳細は「百年戦争の歴史 (1369年-1389年)」を参照
ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催
ジャン2世を捕縛されたフランス王国では、王太子シャルル(後のシャルル5世)が軍資金と身代金の枯渇、王不在の事態に対処するために1356年10月17日、パリで全国三部会を開いた。しかし、敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に支配され、特にパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により、国政の運営を国王から剥奪する案も提出された。
平民議員との交渉は1年以上にもわたって続けられたが平行線をたどり、シャルルはパリでの三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、1358年4月から5月にかけてプロヴァンスやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、ジャックリーの乱を鎮圧するとシャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7月31日にはエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。
ブレティニー条約、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土
この間、ロンドンにて1358年1月に1回目の、1359年3月24日に2回目の和平交渉が行われており、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、シャルルが三部会においてその条約を否決、これを受けて1359年10月28日、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を始めた。
シャルルはこの挑発には応じず、イングランド王軍の資金枯渇による撤退を待ち、1360年5月8日、教皇インノケンティウス6世の仲介による、ブレティニー仮和平条約(en)の締結を行った。これは10月24日にカレー条約として本締結され、アキテーヌ、カレー周辺、ポンティユー、ギーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。
ジャン2世は身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとって1364年1月3日、ロンドンに再渡航した。4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、シャルルはシャルル5世として即位した。
シャルル5世による税制改革と戦略転換
シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からの年貢のみにたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。
シャルル5世は外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ2世によって平定されていたが、彼自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドムンド(黒太子の弟、後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には末弟フィリップ(後のブルゴーニュ公フィリップ2世)とマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。
また、1364年にはブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでシャルル・ド・ブロワが戦死してイングランド王軍が勝利を収めたが、シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでモンフォール伯の子をブルターニュ公ジャン4世として認めた。しかし、ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。