薔薇戦争【イングランド内乱】百年戦争直後

 

名称とシンボル

ヨーク家の白薔薇

ランカスター家の赤薔薇

薔薇戦争の名称は、2つの王家のヘラルディック・バッジ英語版)(記章)[n 1]であるヨーク家の白薔薇英語版)、ランカスター家の赤薔薇英語版)に由来するものである[3]。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である[4]。この名称は19世紀の小説家ウォルター・スコットの『ガイアスタインのアン』(Anne of Geierstein)以降に広く用いられるようになった[2]

当時の擬似封建制度英語版)のもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:livery badge)を着用していた[5]。例えば、ボズワースの戦いではヘンリー・テューダーの軍勢は「赤い竜」の旗の下で戦い[6]、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「白い猪英語版)」を用いていた[7]。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴としたテューダー・ローズのバッジを用いた[8]

ライバル両家の名称は、おのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない[9]。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)[10]に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった[9]

背景

百年戦争とランカスター朝の成立

ブレティニー・カレー条約時(1360年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)

  イングランド王領域

  ブレティニー・カレー条約によるイングランド獲得地

トロワ条約時(1420年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)
 

  フランス王領域

  ブルゴーニュ公領

1330年代のスコットランド政策を巡ってのフランス王フィリップ6世とイングランド王エドワード3世との対立が百年戦争の発端となった。当時のイングランド王は大陸に領地を有するアキテーヌ公を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世はヴァロワ家のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て[12]、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した。エドワード3世と有能な将帥であるエドワード黒太子クレシーの戦い(1346年)とポワティエの戦い(1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年のブレティニー・カレー条約英語版)で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復とカレー、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう。

薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーは13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、クラレンスランカスターヨークそしてグロスターといったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる。

1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子でわずか9歳のリチャード2世が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープもまた後を追って死去しており、娘のフィリッパ英語版)が残され、リチャード2世の王位継承権者(推定相続人)となった。フィリッパは第3代マーチ伯エドマンド・モーティマー英語版)と結婚した。1381年にエドムンドとフィリッパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子の第4代マーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名したが、ロジャーは1398年に死去してしまい、第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーが残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫である第5代マーチ伯が王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった。

 

ヘンリー4世

 

ヘンリー5世

百年戦争に苦戦していたリチャード2世は、ワット・タイラーの乱をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ[16]、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた[17]。1399年に叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリングブルックを領地没収と国外追放に処した[18]。ボリングブルックは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかし即位から数年がたつと、ヘンリー4世はウェールズチェシャーそしてノーサンバーランドでの反乱に直面することになり、これらの反乱は第5代マーチ伯エドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。

1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスとトロワ条約を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた。

ヘンリー5世の9年間の治世ではサウザンプトンの陰謀英語版)が起こっており、エドワード3世の第4子エドムンド・オブ・ラングリーの子であるケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラがアジャンクールの戦いに先立つ1415年に反逆罪で処刑されている。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有するアン・モーティマー英語版)(ライオネル・オブ・アントワープの曾孫でロジャー・モーティマーの娘)は1411年に死去している。アンの弟の第5代マーチ伯はヘンリー5世に忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、その王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。

ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子のリチャードは父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は私権を剥奪英語版)されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公エドワードの称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。

ヘンリー6世の治世

ヘンリー6世。
作者不明、1620年頃。
穏和な性格で信仰心が篤く王者よりも聖人たる人物だったと言われる。治世中に幾度か精神錯乱を起こしており、大貴族たちの権力闘争を招いた。

1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した一人息子ヘンリー6世はわずか生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世も死去しており、トロワ条約に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルル(シャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。

ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリーの2人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が護国卿摂政)となり、ベッドフォード公がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとが反目するようになった。

1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが、1435年のアラスの和約で同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がシャルル7世と講和し、イングランドにとって情勢は不利になった。

ベッドフォード公が1435年に死去すると、ヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。

ヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューとの婚儀。
Martial d'Auvergne画、15世紀。

サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平にはメーヌの割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった。1447年、サフォーク侯[n 3]は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズ英語版)の牢獄で死去した。

グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公[n 3]の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが、失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう[30]。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された[31]

代わってサマセット公エドムンド・ボーフォートが和平派の中心人物となった[32]。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディーの総督」職に就いていたヨーク公リチャード(グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり[33]、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した。

1450年、ケントにおいて民衆暴動が発生した(ジャック・ケイド英語版)の反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された。

1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり[37]ブラックヒース英語版)でヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された[38]。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが、恩赦により釈放されている。

国王ヘンリー6世の御前で言い争うサマセット公とヨーク公。
A Chronicle of England,1864年

宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールデヴォンで行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある。

フランスではシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、1453年10月19日、イングランド軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。

1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された。彼はすぐにこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家のノーサンバーランド伯(ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子のウォリック伯)を支援した。

1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する。