三十年戦争
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三十年戦争 | |
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![]() 三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年) |
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戦争:三十年戦争 | |
年月日:1618年–1648年 | |
場所:ヨーロッパ(主に、現在のドイツ) | |
結果:ヴェストファーレン条約 | |
交戦勢力 新教徒勢力 スウェーデン・バルト帝国 (1630–) フランス王国 (1635–) デンマーク=ノルウェー (1625–1629) ボヘミア王国 (1618-1620) ネーデルラント連邦共和国 ザクセン選帝侯領 プファルツ選帝侯領 (-1623) ブランデンブルク=プロイセン ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 イングランド王国 (1625-30)[注 1] トランシルヴァニア公国 反ハプスブルク家勢力[2] ザポロージャ・コサック(英語版) オスマン帝国 ローマ・カトリック勢力 神聖ローマ帝国 カトリック連盟 オーストリア大公国 ボヘミア王国 (1620-) スペイン帝国 王領ハンガリー[3] クロアチア王国(英語版)[注 2] デンマーク=ノルウェー (1643–1645)[注 3] |
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指導者・指揮官 | |
グスタフ・アドルフ † アクセル・オクセンシェルナ ヨハン・バネール(英語版) レンナート・トルステンソン グスタフ・ホルン カール・グスタフ・ウランゲル(英語版) カール10世 アレクサンダー・レスリー(英語版) ルイ13世 リシュリュー フーキエール侯マナセ・ド・パ(英語版) † コンデ公ルイ2世 フランス大元帥テュレンヌ プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王) インドジフ・マトヤス・トゥルン(トゥルン伯ハインリヒ・マティアス)(英語版) アンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン1世 クリスチャン4世 ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世 オラニエ公マウリッツ ピート・ヘイン(英語版) ウィレム・ファン・ナッサウ(英語版) オラニエ公フレデリック・ヘンドリック マールテン・トロンプ エルンスト・カシミール ヘンドリック・カシミール1世 バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ ベトレン・ガーボル エルンスト・フォン・マンスフェルト クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル ボフダン・フメリニツキー オスマン2世 フェリペ4世 ガスパール・デ・グスマン ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(英語版) アンブロジオ・スピノラ 枢機卿フェルナンド・デ・アウストリア フェリア公(英語版) ファドリケ・デ・トレド(英語版) アントニオ・デ・オケンド(英語版) カルロス・コロマ(英語版) フランシスコ・デ・メロ(英語版) ディエゴ・フェリペ・デ・グスマン(英語版) アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン ティリー伯ヨハン・セルクラエス † フェルディナント2世 フェルディナント3世 フランツ・フォン・メルシー(英語版) † ヨハン・フォン・ヴェルト(英語版) ゴットフリート・ハインリヒ・グラーフ・ツー・パッペンハイム(英語版) † バイエルン選帝侯マクシミリアン1世 |
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戦力 | |
661,000人 :
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450,000 人:
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損害 | |
三十年戦争関係地図
プロテスタント多数派国・領邦
スペイン・ハプスブルク
オーストリア・ハプスブルク
(1)1620-1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。
(2)1625-1629:デンマーク王クリスチャン4世の介入。
(3)1630-1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。
(4)1635-1643:フランスの介入。
(5)1645-1648:テュレンヌ将軍とスウェーデンのドイツ戦役。
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、独: Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた戦争。新教派(プロテスタント)とカトリックとの間で展開された最後で最大の宗教戦争といわれる[7]。当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争がヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。スウェーデンが参戦した1630年以降は、フランス王国ブルボン家とオーストリア大公国ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いともなった。この戦争は欧州経済の転機となり、スウェーデンへはオランダから資本が、リエージュから鉱山開発技術が流れこみ、またスウェーデンからオランダへ大量の武器が輸出されるようになった[8]。
目次
1概要
2背景
3ボヘミア・プファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)
4デンマーク・ニーダーザクセン戦争
5スウェーデン戦争
5.1スウェーデン参戦からレヒ川の戦いまで
5.2リュッツェンの戦い
5.3ヴァレンシュタイン暗殺
5.4プラハ条約締結
6フランス・スウェーデン戦争
6.12人の宰相
6.2反ハプスブルクの反撃
6.3和平会議の開始と戦争の行方
6.4トルステンソン戦争〜ボヘミア侵攻
6.5ヴェストファーレン条約の締結
6.6三十年戦争終結
7結果・影響
8年表
9脚注
9.1注釈
9.2出典
10参考文献
11関連図書
12関連項目
12.1事項
12.2事件
12.3人物
12.4作品
概要
三十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いた。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからである。また、長期の戦争を継続することは国家財政を圧迫するため、息切れするかのように戦争が中断されることになった。しかし、戦争が長引くとインターバルの期間は次第に短くなり、三十年戦争の最終段階では13年間にもわたる戦闘が繰り広げられた。
この戦争は4つの段階に分類することができ、それぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。
- 第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
- 第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)
- 第3段階:スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
- 第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)
当初は宗教闘争に名を借りた民族対立の様相を呈していたが、戦争の第2段階から徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力間の国際戦争として展開することになった。
この戦争が単なる宗派対立による宗教戦争ではないことは、戦争勃発当初から明らかであった。このことは、ボヘミアのプロテスタント諸侯たちと新教派のプファルツ選帝侯によるハプスブルク家への反乱に対して、同じ新教派のザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯が、彼らとプロテスタント同盟(ウニオン Union)を結成していながら彼らを見捨て、ハプスブルク家を中心としたカトリック連盟(リガ Liga)を支援したという事実からもわかる。しかもザクセン選帝侯は、皇帝側に就いたり、皇帝に反旗を翻したりと、情勢と戦争の展開に応じて立場を変えている。
そして、ボヘミアとプファルツの新教勢力鎮圧によって新教連合が解体し、ハプスブルク家による新教派弾圧と強圧的なカトリック化政策がドイツ全域に及ぼされるに至って、イングランド、デンマーク、スウェーデンなどの新教派諸国が反ハプスブルクの旗印の下で干渉の動きを示すようになっていった。
この反ハプスブルク勢力の中には、カトリック教国であるブルボン朝(フランス王国)も加わっていた。ブルボン朝の勢力拡大をねらう宰相リシュリューは、デンマークとスウェーデンのドイツ情勢への介入を裏で手引きし、第4段階には直接軍事介入によって実力でハプスブルク帝国をねじ伏せようとした。フランスがハプスブルク帝国の勢力拡大を阻止しようと画策したのは、単にヨーロッパ情勢における優位を確保する以上の目的のためであった。もし、ドイツでハプスブルク家の支配が確立されれば、ハプスブルク家が支配するスペインとドイツに挟まれたフランスにとって大きな脅威となり、ブルボン朝の支配が揺るがされる危険性があった。ブルボン朝の安泰のためには、ハプスブルク家のドイツ支配は何としてでも阻止しなければならなかったのである。
しかしその一方で、対ハプスブルク陣営のフランスとスウェーデンの仲も必ずしも良好であったわけではなく、ドイツにおけるスウェーデン軍の勢力拡大を警戒したフランスは、増援の名の下に軍の増強を図ってスウェーデンを牽制する動きを見せた。
このような大国の思惑によってドイツの小国、民衆は振り回され、激しい戦闘によって国土は荒廃していった。やがて外交交渉による戦争終結の道が開かれ、勢力均衡を原則とする国際秩序が形成されていくことになったのである。