ベトナム戦争 Ⅵ・20年:1955/11月 - 1975/…
ケネディ政権
- 米国軍事顧問団の増強
1961年1月20日、アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる[93]。
ケネディ政権は、就任直後に東南アジアにおけるドミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機(英語版)など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し[94]、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。
さらに併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に「南ベトナムとラオスを支援するためにアメリカ軍を南ベトナムとタイに送る」と通告、ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣した。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」と迅速な支援を訴え、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーンへの支持を表明し「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[95]、ケネディの決定を支持した。
1962年2月、ケネディ政権は、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村に対する南ベトナム解放民族戦線の攻撃も続出し、アメリカ合衆国軍は戦略村を維持できなくなり、戦略村作戦は断念し破棄した。
アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナム駐留米軍事顧問団は、1961年末には3,164人に、1963年11月には16,263人に増加した。1962年2月には南ベトナム軍事援助司令部(MACV)を設置、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げする形とした。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定した。ケネディ政権はこのような軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ政権の思惑に反して、アプバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、事態は好転しなかった。
そのような中で、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領も、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うケネディ政権を次第に敵対視するようになった。ケネディは「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ[96]南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。
さらにケネディはアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジエム政権への揺さぶりをかけることを目的に、あえてこれまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、1963年10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。1963年11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、アメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。なお、後に泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、ケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定しており[注釈 1]このケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の発表は単なるジエム政権に対するブラフであり、これ以降も軍事介入拡大政策を取り続ける意向であったことが明らかになっている。
仏教徒による抗議・焼身自殺
サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺するティック・クアン・ドックの写真。
マダム・ヌーとジョンソン副大統領
「仏教徒危機」も参照
1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上で、サイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。
これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた当時の国際連合事務総長ウ・タントもベトナム戦争に苦言を呈して米国は国連との関係も悪化した[98]。