邪馬台国畿内説
本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、畿内地方にあるとする邪馬台国畿内説(やまたいこくきないせつ)を概説する。
目次
1概要
2邪馬台国畿内説の基本論拠
3纒向遺跡
4箸墓古墳
5脚注
6参考文献
概要
詳細は「邪馬台国」を参照
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに[要出典]「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする[1]。
1960年代には、畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では豊富であると考えられていたが、1970年代から交差年代による考古学的年代決定論の研究が進み、畿内説を有力とする意見もある。2000年代に入り、奈良県の纏向遺跡と箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に比定し大和朝廷の成立時期がさかのぼるとする、放射性炭素年代測定と年輪年代学による年代観が国立研究所によって示された。畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代までさかのぼるとの説もある[要出典]にある[2][3][4][5]。この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。
ただし、九州説・畿内説・東遷説はどれも結局のところ、「ヤマト王権」は「大和朝廷(天皇系統)」であるか否かをそれぞれが説明するために作った説で、場所の比定が先にあるのではなく、大和朝廷とは何か、現在の政治権力と大和朝廷の関係はこうあるべきだと説明するために邪馬台国論争は始まったのである。[要出典]
邪馬台国畿内説の基本論拠
邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。
- 考古学的年代決定論の成果により、その始期や変革期が倭人伝の記述と合致する遺跡であることが確実視されるようになったこと。
- 吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
- 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
- 卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していること[6]。
- 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年~244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
- 『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と記載したものがあった可能性もある[7]。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
- 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[要出典]が、畿内からは極わずかしか出土しない。
- 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。
- 「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然[8]。
- 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北部九州の国より南側にあること[9]。
かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。
- 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上[10]になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て日本製」との反論を受けた[11]。
- 邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
纒向遺跡
詳細は「纒向遺跡」を参照
箸墓古墳
箸墓古墳
詳細は「箸墓古墳」を参照
脚注
- ^ 久米雅雄「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。
^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』、邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) 、田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』
^ 伊藤和史. “毎日新聞連載「深読み日本史 邪馬台国」”. 邪馬台国の会. 2011年11月12日閲覧。
^ “「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡”. 産経新聞. (2009年11月11日). オリジナルの2009年11月14日時点によるアーカイブ。 2011年11月12日閲覧。 - ただし、年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われないとの指摘もある。
- 畿内説、九州説を問わず、三角縁神獣鏡を日本で制作されたものとする説がある。
- ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
- ^ 郡使は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあるので、北部九州の小国に関する記述ばかりが詳しいことは不思議ではない。また、小路田泰直は投馬国を出雲にあてている。
- ^ 「魏志倭人伝」を読む限り、伊都国は末盧国より南側にあることになるが、北側にある三雲遺跡が伊都国の有力候補として、九州説支持者も含め広く認知されている。
- ^ 従来から国産とみるのが主流であるホウ製三角縁神獣鏡の枚数も加算した数字とみられるため、プロパガンダ的誇張数字と疑う向きもある。
- ^ ただし、オリジナルのものが伝来した可能性を排除できていない。
参考文献
寺沢薫 「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」 奈良文化財研究所編 / 佐原真+ウェルナー・シュタインハウス監修『日本の考古学 下』学生社、2005年12月。ISBN 4-311-75035-8
和田萃 『大系 日本の歴史2 古墳の時代』 小学館<小学館ライブラリー>、1992年8月。ISBN 4-09-461002-2
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