エシュロンⅠ【NSA職員25万忍社畜125万人】IT系・T… 

 

 

 

分類

暗号解読と内容の重要度の自動認識が済めば、次は人間とおそらくコンピューターによる情報の分類作業が行われる。この時点でさらに内容が吟味され不要な情報が破棄される。おそらく、内容によって重要度がランク付けされ、いくつかのキーワードによる索引が与えられる。

蓄積

分類された情報がいよいよデータベースに登録される。インターネットがデータベースで無いとすれば、エシュロンは世界最大規模のデータベースとする意見が多数であると考えられる。

提供

高度に暗号化されたネットワークを通じて、世界中のエシュロン・ターミナルからエシュロン・データベースにアクセスできる。提供される情報内容は閲覧者の保安レベルや国別・部署別にカテゴリー化されていて、例えば米国の不利益となる可能性がある情報は、他国の閲覧者には提供されないなどの重層的なセキュリティが施されていると考えられている。

参加国

2007年末時点で参加している国は、アメリカ合衆国英国カナダオーストラリアニュージーランドであり、英米同盟(UKUSA、ウークサ。United Kingdom & United States of America)とも呼ばれるアングロサクソン諸国とされる。UKUSAは、1948年にアメリカとイギリスとの間でUKUSA協定が結ばれたことに始まり、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは2次メンバーとして後に参加した。米国以外はイギリス連邦国家である。

協力国

ギリシア、スペイン、ドイツ、日本など、いくつかの同盟国にも、参加は認めないものの傍受局を置いているとされる。これらの国と独自情報を提供する協力国を含めて「サードパーティー」と呼ばれ、エシュロンの閲覧は許可されないものの、UKUSAの国益に反しない限りにおいてエシュロンで得られた情報の提供が行われることがある。日本には、青森県三沢飛行場近くの姉沼通信所に傍受施設(通称「ゾウの檻」)が存在し、1,000人単位のNSA要員が詰めていると言われる他、東京都心のいくつかのUKUSA同盟国の公館内(駐日アメリカ合衆国大使館等)にも傍受施設が存在し、分担して傍受活動を行っているとされている。

誕生背景

1844年にモールス信号による電信通信が実用化され、それ以降、世界各地で電信網が整備されていった。1872年に、大英帝国がインドや香港などの植民地との電信による通信業務を行なう国有企業「イースタン・テレグラフ社」(以降、イ社と略記する)(現・ケーブル・アンド・ワイヤレス社)を設立した。イ社は、19世紀末には全世界の国際通信網の1/3を保有するまでになった。

21世紀の現在では、個人や私企業が行なう通信の盗聴・傍受にはさまざまな規制があるが、当時はこういった障壁はなく、英国政府はほぼ自由にイ社の通信情報を取得していたと考えられる。イ社の通信システムは、エシュロンと直接の関係はないが、国家による通信傍受のための大規模なシステムとして、エシュロンの手本になったと考えられる。イースタン・テレグラフ社の通信システムは、英国にとってエシュロンと同等の役割を担っていたシステムとして語られる。

40号室

1914年に第一次世界大戦が始まると、英国海軍省は直ちに暗号解読専門部署を開設したが、後にホワイトホールの海軍省旧館40号室 (Room 40) に移った。これがエシュロンの直接の先祖といえる。ジェームズ・アルフレッド・ユーイング英語版)は、官憲による没収を免れた無線受信機でドイツ帝国軍の無線電信文を大量に傍受、海軍情報部に引き渡した。この功績を買われてユーイングは40号室の所長となった。ここには軍民双方から言語学・数学、その他あらゆる分野の専門家が集められた。40号室はマタ・ハリの逮捕、ツィンメルマン電報事件など、多数の秘密通信を解読して、情報戦争の有用性を示した。

しかし、大戦に関するかぎり海軍省は、40号室の開設以前からHVB, SKM, VB などを解読できるようになっていた。

MI8

第一次世界大戦に参戦した米国は、自国の暗号戦での脆弱性を認識して「MI8」(陸軍諜報部第8課)をワシントンに開設した。

米国国務省から転出し、初代課長となったハーバート・O・ヤードリー(当時27歳)は、若いながら暗号解読のエキスパートだった。しかし、当時の米国は暗号解読技術の後進国だったので、フランスの情報解読機関「シャンブル・ノワール」(Chambre noir、黒い部屋)と、英国陸軍省情報局、英国海軍省情報部(40号室)を廻って、これらの進んだ技術を吸収した。

ドイツの暗号を解読していたMI8は、第一次世界大戦の終結と共に閉鎖が検討され、結局、暗号作成などの一部の業務が国務省と陸軍省の機密費で存続した。1917年にはニューヨークに移動し、後に「ブラック・チェンバー 」(Black Chamber、黒い部屋)として知られる場所が誕生した。年間予算は10万ドル程で、人数も10人前後であった。

GCCS

英国海軍省40号室も、第一次世界大戦の終結によって、一時閉鎖された。しかし、すぐに陸軍の暗号解読班と統合して、軍隊から転出するという改組によって復活し、新たな名前として「政府暗号学校」(Government Code and Cipher School, GCCS) が与えられた。学校と名乗っていたが、実体はそれまでと変わらず、通信傍受と暗号解読に関する情報機関であった。年間予算は22,000ポンド程で、人数も70人前後であった。

GCCSの発足後、英国政府は英国国内の全ての電信会社に電文の写しの提出を命令した。英国でも営業していた米国の通信会社ウエスタンユニオンはこれに強く抗議した。米国議会上院委員会の公聴会でのウエスタンユニオン社社長の発言によって、米国の電信通信が英国で傍受され続けていたことが判明した。米国政府は、友好国である英国が大戦中から継続的に情報を収集していたことに危機感をもち、これ以降、暗号能力の強化に努力を注ぐことになる。MI8(英国軍情報部第8課)のブラック・チェンバーとともに、陸軍通信隊のウィリアム・フレデリック・フリードマン英語版)という暗号の天才も才能を開花させ、米国の暗号能力はこの後、飛躍的に向上する。