天武天皇 Ⅳ【下】宮と造都・文化政策・動物保護・宗教政策(… 

 

人物像

天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった[95]。『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり[96]、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが[97]、これらは道教的な技能である。『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す[98]。『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き[99]、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという[100]。占いも神助も現代の学者のとるところではないから、諸学者はこれらを天皇の権謀とみたり[101]、偶然の関与とみたりするが、このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた[102]。即位後の政治にも宗教・儀式への関心が伺えるが、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強い。

天武天皇の和歌は、蒲生野で額田王と交わした恋の歌、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌が伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。学者には伝えられていないだけとする人もいるが[103]、ここに彼の趣味嗜好を見る人もいる[104]。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり[105]、天武天皇14年(674年)9月18日に大安殿で博戯(ばくち)の大会を開くといった遊侠的なものさえあった[106]。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。こうした側面に、民衆(より具体的には地方豪族層)の心をとらえるものがあったかもしれない[107]

文暦2年(1235年)の盗掘後の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あった。ここから身長175センチメートルくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される[108]藤原定家の日記『明月記』によれば、白髪も残っていたという。

和歌

  • むらさきの にほへる妹を 憎くあらば

 人妻ゆゑに吾恋ひめやも(『万葉集』巻一、21)

天智天皇7年、 天智天皇が蒲生野に遊猟に出かけたときに、額田王が皇太子、すなわち大海人皇子に「野守は見ずや 君が袖振る」と歌ったのに答えた。額田王ははじめ大海人皇子に嫁し、後に天智天皇の妻となった。

  • み吉野の 耳我(みみが)の嶺に

 時なくぞ 雪はふりける  ひまなくぞ 雨はふりける  その雪の 時なきがごと  その雨の ひまなきがごと  くまも落ちず  念ひつつぞ来し  その山道を(『万葉集』巻一、25)

吉野の山道を沈痛憂鬱に詠んだもの。憂鬱の内容は恋とするのが古い解釈であったが、江戸時代以降は契沖以降賀茂真淵橘守部山田孝雄高木市之助ら、天智天皇重病時に剃髪して吉野に入ったときのこととする。

  • よき人の 良しとよく見て よしと言ひし

 吉野よく見よ 良き人よく見つ(『万葉集』巻一、27)

 

系譜