天武天皇 Ⅰ【前】

 

壬申の乱

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[28]

しかし『扶桑略記』では異説として、

「十二月三日、天皇崩、同月五日、大友皇太子即為帝位 生年廿五 一云、駕馬幸山階郷、更無還御、永交山林、不知崩所、<只以履沓落處為其山陵以往諸皇不知因果恒事殺害> 山陵山城國宇治郡山科郷北山(※<>内は原文小文字)」

(意訳)12月3日に天智天皇が崩御し同月5日に大友皇子が即位した、生年25。一説には、山階(山科)の郷へ遠乗りに出掛けた儘、帰って来なかった。山林の中に深く入ってしまい何処で死んだのかも判らない。為様が無いので、その沓の落ちていた處を陵とした。其処は現在の山城國宇治郡山科郷(現・京都府山科区)北山である。

とあり、天智天皇は病気どころか当日までピンピンしており、山科へ馬で遠乗りに出掛けたが、其の儘帰って来なかった、と謂う。

吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[29])朝廷を主宰して後継に立った。

翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。

大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

天皇の治世

天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。

天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮大来皇女斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。

皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。

天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。

葬儀

10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。

陵・霊廟

(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵、ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方八角)。考古学名は野口王墓古墳。持統天皇との夫婦合葬墓である。古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。藤原定家が『明月記』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子がある。

上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている[30]。考古学名は見瀬丸山古墳

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

天武朝の政策

統治開始の抱負

壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした[31]

このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ[32]、赤を衣の上に付けて印とした[33]。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される[34]

天皇専制と皇親政治

吉野での逼塞から、わずかな供を連れ逃れるように東行し、たちまち数万の軍を起こして勝利を得た天武天皇は、人々に強い印象を与えた。天武天皇の高い権威を象徴するものとして決まって引かれるのが、『万葉集』におさめられた「おおきみは神にしませば」ではじまる複数の歌である[35]

天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という[36]。皇族は冠位26階制と別に五位までの皇族専用の位を帯びた。

しかし皇族が政権を掌握したわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した[37]。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち[38]、古代における天皇専制の頂点となった[39]

ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままであった。壬申の乱が本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、日本では最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったのである[40]

日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である[41]。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称で、彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという。『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所があるのがその根拠である[42]