“麻原彰晃はどこから来たのか?”
ゴールデンウィークだから、ちまちまじっくり読んでくださいw
李氏朝鮮とか、開化派とか、玄洋社とか、分かるかな~~?
私もこの記事を理解するのに相当時間を費やしました、
日本史ってのは、落書きしているか、寝てるかという時間だったからね。
オマケに近現代なんて、先生は教えてくれな~~い。
黒い太陽のブログが消えたあとも、なぜ佐々一族に関する記事だけ見られるのか、
最近、ようやくその意味が分かってきました。(というか、3ヶ月前にはわかったw)
独立党って、とんでもない集団だけど、
世界の構造を逆に教えてくれてるんで、ありがたいですね。
心情党員にならなかったら、ここまで分からなかったと思います。
リチャードコシミズ様バンザイですね。
でも、裏社会からは見放されるのは時間の問題…
だから金~~金~~金~~~となるのでしょうね。
出版費用が定額さんの言うとおり、贈与だったら大変~~~ww
http://h09.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-2209.html
T氏からの広告寄付は贈与税が発生し、一千万以上の額になっています。(私の推定では寄付額2千万以上で、納税義務が一千万になっています)
では、貼り付け開始です。
佐々一族はみんな犯罪者その②-李氏朝鮮の王妃を暗殺した安達謙蔵
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日本には、近現代史において、一貫して、汚い裏の仕事を請け負ってきた
ゴロツキ一族が存在する。その名を佐々一族と言う。あさま山荘事件を担当した
佐々淳行(伝説の警視正)の一族である。今から佐々一族の悪事を紹介します。
2番手に紹介する人物は、佐々一族(佐々淳行の伯父{佐々友房の長男}の
佐々信一の妻の原冬子の兄妹の原董治{安達董治}の養父)である安達謙蔵
(乙未事変のテロリスト、熊本国権党の2代目党首、内務大臣、国民同盟の創設者)。
安達謙蔵は、三浦梧楼(熊本鎮台の司令長官、玄洋社の社員、浪人会の主要メンバー)と
共に、1895年10月8日に、在朝鮮半島の熊本県出身者を率いて閔妃(李氏朝鮮の王妃)の
暗殺を企て実行する乙未事変を引き起こし、投獄されています。流石に、隣国の王妃暗殺
という犯罪は、あの中核派(極左テロ組織)でさえもやっていない究極のテロ行為です。
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安達謙蔵が閔妃を暗殺した乙未事変の背後には、当時の朝鮮王朝内部での
事大党(清国への臣属を主張し反日グループ)と開化派(清国からの独立と近代化を
目指した新日グループ)の対立と、日清戦争の後の大日本帝国とロシア帝国との
朝鮮半島を巡る争いがありました。閔妃は、実に頭の良い王妃であり、無能な
朝鮮王であった夫の高宗(朝鮮王)に代わり、実質的に朝鮮王朝を動かしていた女性
でした。そんなこともあって、高宗の実父である興宣大院君(李氏朝鮮の王族)と
閔妃は犬猿の仲であり、常に対立をしていました。実父と妻の間で板挟みになって
いる状況にて、閔妃の尻に敷かれていた高宗は、実父の興宣大院君を追放して、
閔妃と閔妃の一族が国の実権を握って、朝鮮王朝を支配しました。閔妃は、
朝鮮半島の近代化を推し進めようとして、開国政策をとり、大日本帝国と
日朝修好条規を締結するなどして、積極的な開化政策を行い、日本から
顧問を呼び寄せて、軍隊の近代化に着手しました。しかし、閔妃が新たに
設けた新式の軍隊に資金が投入される一方で、従来の旧式の軍隊は放置され、
賃金未払い問題なども発生した結果、旧式の軍隊による閔妃への不満が
高まっていきました。そして、閔妃を逆恨みした興宣大院君は、閔妃が
放置した旧式の軍隊と組んで、閔妃の暗殺を試み、壬午事変を起こすと、
閔妃は、すかさず、清国の袁世凱(清朝の内閣総理大臣)にすり寄って、
清国の助けを借りて反撃に出ます。しかし、逆に、閔妃が興宣大院君を
打ち負かし、興宣大院君を清国の軍隊に連行させて、天津に幽閉して
しまいます。この頃から、それまでは新日路線であった閔妃は、清国に
頼る事大主義に路線に変更していき、清国への臣属を主張するように
なります。閔妃が率いた事大党が行う清国への事大主義に対して、
朝鮮半島の近代化が妨げられると懸念して、閔妃の排除を目論んで
いたのが、開化派であった金玉均(李氏朝鮮後期の政治家)と朴泳孝
(李氏朝鮮後期の政治家、日本名は山崎永春)でした。そして、日清戦争で
大日本帝国が清国を倒すと、大日本帝国は、清国サイドへ寝返った閔妃を
追い出すために、幽閉されていた興宣大院君を担ぎ上げて、アンチ閔妃の
金玉均と朴泳孝と手を結びます。大日本帝国に推す興宣大院君の勢力は
強くなり、一方で、閔妃の勢力は衰退していきました。そして、閔妃は、
大日本帝国が推す興宣大院君と張り合うために、今度は、南下政策を
図っていたロシア帝国と手を組みます。それを良しと思わなかった三浦梧楼と
安達謙蔵は、開化派の金玉均や朴泳孝と組んで閔妃を暗殺したというわけです。
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それが、1895年に起こった乙未事変でした。三浦梧楼や安達謙蔵と
組んだ金玉均と朴泳孝は、玄洋社からも支援を受けていました。玄洋社の
社員には、ロシア革命でウラジーミル・レーニン(ソ連共産党の初代指導者)に
資金援助をした明石元二郎(陸軍大将、ロシア革命の黒幕、玄洋社の社員)や、
佐々淳行の父親である佐々弘雄の上司だった緒方竹虎が所属しています。
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そして、閔妃が暗殺された乙未事変が起こった1895年から、およそ
9年後の1904年に、大日本帝国とロシア帝国とが、朝鮮半島と満洲南部を
主戦場として、日露戦争を始めている歴史の流れは記憶すべきことでしょう。
ちなみに、乙未事変から15年後の1910年に、明石元二郎が、韓国統監を
勤める寺内正毅(後の初代朝鮮総督、内閣総理大臣)の下で、憲兵
(大日本帝国陸軍直下の警察)の司令官と警務総長を兼務して、韓国併合の
過程で武断政治を推し進めています。閔妃を暗殺した乙未事変の
首謀者の1人として投獄されていた安達謙蔵ですが、出獄すると、
熊本県に帰って、佐々友房の後を引き継いで、熊本国権党の党首となり、
中央政界への進出を試みます。安達謙蔵は、1902年の衆議院選挙で
初当選を果たして、国会議事堂入りをし、濱口雄幸(内閣総理大臣)と若槻禮次郎
(内閣総理大臣)の下で、2度に渡って、特別高等警察(戦後の公安警察の前身)を
管掌する内務省を指揮監督する立場にある内務大臣を歴任し、満州事変
(1931年 ~ 1932年)の時には、特別高等警察を強化しています。安達謙蔵が
内務大臣を務めた時代に、安達謙蔵の支配する内務省で部下として動いて
いたのが、特別高等警察を指揮する警視庁官房主事を務めた正力松太郎
(警視庁官房主事、読売新聞社の社主、日本テレビの創設者、初代原子力委員会委員長)
です。正力松太郎が、後藤田正晴(警察庁長官、内閣官房長官)と中曽根康弘
(ゲイの内閣総理大臣)と渡邉恒雄(読売新聞社の会長、日本共産党の党員)といった、
3人の怪物達を顎で動かすボスであったことは有名です。また、安達謙蔵は、
古屋慶隆(鉄道省の参与官)や、中野正剛(朝日新聞社の幹部記者、玄洋社の社員、
東方会の総裁)や風見章(司法大臣、朝日新聞社の幹部記者、信濃毎日新聞の主筆、
昭和研究会の主要メンバー、朝食会の中心メンバー)や、富田幸次郎(衆議院議長)と
共に、国民同盟を結党しています。安達謙蔵のキー・ワードと言えば、『熊本県』と
『朝鮮半島』と『警察人脈』の3つですが、安達謙蔵のこの3つキー・ワードを全て持つ
人物が、他にもう1人いました。麻原彰晃(オウム真理教の教祖、本名は松本智津夫)は、
熊本県の八代市高植本町(旧・八代郡金剛村)の畳職人の家庭の四男として産まれ
ましたが、「週刊文春」2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の
警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に
引き揚げた」のだそうです。この「週刊文春」の記事が事実だとすると、麻原彰晃の
祖父に、佐々一族の安達謙蔵の直属の部下であった可能性が出てきます。
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佐々友房も、佐々一族の安達謙蔵も。麻原彰晃の祖父も、同じ熊本県の出身
です。安達謙蔵も麻原彰晃の祖父も朝鮮半島にいました。そして、安達謙蔵は、
特別高等警察を管掌する内務省を指揮監督する内務大臣を歴任し、麻原彰晃の
祖父は、朝鮮半島で警察署長を務めているそうです。朝鮮半島の警察のボスを
明石元二郎が歴任していたことも気になります。麻原彰晃の祖父は、熊本国権党や
玄洋社と接点があったのではないか?佐々一族が松本家を育てたのではないか?
実は、佐々一族と麻原彰晃には、先ほど挙げた3つの接点の他、もう1つ重要な
接点がありました。麻原彰晃は水俣病から視覚障害を持っていました。 |