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1. 無題
始めまして、嵐は嫌と申します。ここには、
はじめて投稿します。少し、長文になりますが、
すみません。
以前、佐々淳行と重信房子の関係について、題材に
されておりましたが、このネタの情報ソースの本を伝え
ます。情報ソースがはっきりしていた方が説得力がある
でしょう。新潮社から出版されている金子淳一が書いた
「昭和激流 四元義隆の生涯」という本です。この本に、
公安警察の指導者だった佐々淳行の父親の佐々弘雄と、
日本赤軍の女指導者である重信房子の父親の重信末夫が、
エセ右翼の巨頭である四元義隆を通して、同じサークルの
仲間であったことが詳しく書かれています。以下、
「昭和激流 四元義隆の生涯」の重要な部分を
引用しておきます。
~引用開始(P90~P92)~
池袋が病気で入院した後、しばらくして金鶏学院で事件が起こる。四元と日召が、
学院を取り締まる立場にある院生代表二人を殴るという暴力事件である。当時、
学院に寄宿していた池袋の都城中学時代の友人、重信末夫(日本赤軍の
最高指導者として知られる重信房子の父)を侮辱したという理由である。だが、
とにかくこれで、四元は完全に学院と決別することになったのだ。
~引用終り~
*同書に書かれている池袋とは、地名ではなく、血盟団の団員の池袋正釟郎のこと
*四元義隆が金鶏学院を止める直接の理由が、重信末夫を庇うことだったということ
嵐は嫌 2013-03-06 16:27:17
2. 無題
四元義隆の物語の中で最大のミステリーは、血盟団事件で小管刑務所に
投獄していたテロリストの四元義隆が、その後、どのようにして、国家を
動かす程の権力を手に入れたか、ということでしょう。この謎に対する答も、
「昭和激流 四元義隆の生涯」に詳しく書かれています。
~引用開始(P154~P159)~
さっそく、四元は朝日新聞の主筆、緒方竹虎に面会した。刑務所から出たばかりで、
随分大胆なことをするように思えるが、四元としては国のために何かをしたいという
情熱に駆られた、必死の行動だった。
―中略―
当時は日々軍国主義体制が固められる中で、戦争に反対するだけで、当局に
睨まれる状況だった。そんな中で真剣に持論を語る四元の姿に感銘を受けた
緒方は、すぐ朝日新聞論説主幹の佐々弘雄(元九州大学教授)を紹介した。
さっそく、佐々に面会した四元はすぐに意気投合し、その後、二人は肝胆相照らす
仲になっていったのである。この出会いが、大きな転機となった。佐々弘雄は
昭和研究会のメンバーであり、近衛の側近の一人だった。
―中略―
佐々は近衛に四元を丁寧に紹介した。
―中略―
それから、しばらくして四元のところへ佐々弘雄が来て、近衛からの伝言を
伝えた。四元に秘書になってもらえないかというのである。
~引用終り~
*佐々弘雄は、四元義隆を近衛文麿に紹介して国家の中枢に送り込んだ張本人
*佐々弘雄は、ゾルゲ諜報団の尾崎秀実も近衛文麿に紹介している
この本からも分かる通り、佐々淳行と重信房子は、歳の
離れた幼馴染です。佐々淳行の父親である佐々弘雄と
重信房子の父親である重信末夫の2人は、エセ右翼の
黒幕である四元義隆を通して親友でした。
嵐は嫌 2013-03-06 16:28:34
3. 無題
ついでに、佐々淳行と、オウム真理教第6サティアンのあった
上九一色村への大がかりな家宅捜索の全面指揮を
執った警察官僚の寺尾正大の関係も、情報ソースの本を
載せておきます。佐々淳行と寺尾正大の関係は、
佐々淳行本人が書いた「連合赤軍「あさま山荘」事件」に
書いてあります。
~引用開始(P179)~
かつて私の別室(副官)だった寺尾正大警部が
―中略―
と電話してきたそうだ。
~引用終り~
嵐は嫌 2013-03-06 16:32:07
4. 無題
ご存知の通り、佐々淳行は、2007年(平成19年)に行われた
東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙対策本部長を
務めていますが、石原慎太郎はオウム真理教と癒着して
いましたし、佐々淳行の上司の後藤田正晴は、警察庁長官
から政治家に転身した人物で、中曽根康弘(内閣総理大臣)の
懐刀ですが、後藤田正晴の後援会会長の息子はオウム真理教の
最高幹部の石川公一でした。上記の四元義隆も中曽根康弘の
側近の一人です。このように、佐々淳行の上司の後藤田正晴と
石原慎太郎の2人が、共に、オウム真理教と癒着していました。
そんな中で、オウム真理教第6サティアンのあった上九一色村
への大がかりな家宅捜索の全面指揮を執った警察官僚が
寺尾正大です。これも佐々淳行本人が書いた本なのですが、
「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」
という本に、オウム事件時の佐々淳行と寺尾正大のやり取りが
詳しく記述されています。
~引用開始(P207~P209)~
二月二十八日付で警視庁刑事部捜査第一課長になったばかりの寺尾正大
警視が深刻な顔つきでやってきた。ついこの間鑑識課長として年賀に来たばかり
なのに、今日は何だろう?
「どうも一連の事件はオウム真理教の疑いが濃くなりました。サティアン周辺の
土壌からも化学合成物がでました。ガサ(押収捜索差押え許可状)をとって、
山梨県警と合同で上九一色村のサティアンを捜索することになりました。それが
捜査一課担当となって私が指揮して近く着手することになったんです。つきましては
『あさま山荘』の経験から心すべきことを御教示頂こうと……」
嵐は嫌 2013-03-06 16:33:32
5. 無題
「なんで捜査一課なんだ。動員する兵力は?」
「私服三百名」
「バカいうな、敵はヘッドギアの狂信者二千名、サリンとカラシニコフ自動小銃つくってる
疑いがあるんだぞ。俺も関係当局に意見具申するが、これは三千名の機動隊動員を
してライフル班も放水車も、毒ガスマスクも化学防護衣も準備してやる。“大警備実施”だ。
三百の私服でやって殉職者を出したら君も俺のように一生十字架背負うんだぞ。俺が
悪者になろう。佐々が私服三百ではダメだ、警備局がやれといったといって君はその
任務、断れ。俺が手配して制私服合同の警備実施、やらせる。殉職者、出してみろ、
辛いぞ。自衛隊のガスマスク、秘かに保管転換する。サリンは水に弱い。加水分解
するというから放水車は絶対に必要。上九一色村の水源、調べろ」
―中略―
また嫌われるなあと思いつつ、警視庁、警視庁の関係幹部に電話をかけまくり、
ついでに大御所後藤田正晴氏にも意見具申した。
―中略―
その結果、予定されていた上九一色村のガサは延期され、兵力一千五百名、
自衛隊からの毒ガスマスクの保管転換、放水車、特型警備車も動員しての
「捜査第一課長指揮事件」となった。
~引用終り~
嵐は嫌 2013-03-06 16:34:26
6. 無題
ポイント
*寺尾正大は最初、オウム捜査に、私服300人だけで挑むつもりだったのを
佐々淳行がチャチャ入れて、最終的には、佐々淳行の意見が押し通り、
兵力一千五百名の大捜査となった。
*警察庁刑事局参事官を務めた警視正の佐々淳行は、警察を退官後、防衛庁に
出向して、防衛庁長官官房長を務めている。つまり、佐々淳行は、公安警察と
自衛隊の両方を動かすことができた人物だった。
*佐々淳行が意見具申した後藤田正晴の後援会会長の息子は、オウム真理教の
最高幹部の石川公一だった。
*後藤田正晴はオウム真理教の宣伝広告のすべてを請け負っていた朝堂院大覚
から5億円近い献金を受け取っていた。
*朝堂院大覚は後藤組とも癒着していた。
*後藤田正晴の大甥の後藤田正純は統一教会のイベントに出席している。
*佐々淳行が2007年(平成19年)に選挙対策本部長を務めることとなる
石原慎太郎は、オウム真理教と癒着していた。
*9.11自作自演テロでも福島原発偽装パニックでも放水車は登場している。
また、同書「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」には、
オウム事件のときの佐々淳行とCIAのやり取りも書いてあります。
~引用開始(P209)~
また電話が鳴った。ワシントンからの国際電話である。
「フウ・ディッド・イット?」
CIAのカニストラ氏だ。
~引用終り~
7. 無題
さらに、同書「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」には、
オウム事件に連座した警察庁長官狙撃事件のとき、佐々淳行が、
アメリカで、ジャパン・ハンドラーズのジョゼフ・ナイとリチャード・アーミテージと
会っていたことも書いてあります。
~引用開始(P210)~
そして三月三十日、果敢に全国警察のオウム捜査を指揮していた國松孝次
警察庁長官が何者かに狙撃され、瀕死の重傷を負うという前代未聞の大事件が
起きた。折柄サンフランシスコで催された日米安全保障セミナー(日米OB防衛会議。
議長ジェームズ・ケリー、日本代表松永信雄元中米大使、米側ジョゼフ・ナイ
国防次官補)に出席していた私に、当時防衛庁審議官だった平沢勝栄氏
(現・衆議院議員)からメモが渡された。
―中略―
ジョゼフ・ナイ国防次官補、リチャード・アーミテージ大使らに激励されながら
私は直ちに帰国し
~引用終り~
*リチャード・アーミテージは、ミャンマーのアヘン王クン・サに、クン・サの
麻薬ビジネスの仲間だったと暴露されています。警察官僚だった佐々淳行が
リチャード・アーミテージの正体を知らなかったはずはないです。
嵐は嫌 2013-03-06 16:37:23
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