瞑想【前半】Ⅰ 目次・概説
様々な宗教・宗派における瞑想
インド発祥の瞑想
インドでは極めて古くから瞑想が行われていたようであり、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡であるモヘンジョダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。
紀元2~3世紀ごろにパタンジャリが、サーンキヤ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになった(「ヨーガ・スートラ」『魂の科学』『解説ヨーガ・スートラ』参照)。その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれている。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるのである。この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれる。
仏教の始祖とされているブッダ("悟った人"の意)は、究極の智慧を得たのであるが、それは上述のインドの瞑想の技法(あるいはヨーガ)によって得たものであり、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた(『原始仏典』参照)。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある。(詳細は瑜伽、法相宗、真言宗、天台宗、天台止観、禅、上座部仏教などの項を参照)
大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す。仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化している一方で、ヴィパッサナー瞑想によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としており、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっている[要出典]。
キリスト教と瞑想
キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多い。信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもある。日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のような霊操が行われている。
東方教会においては、「主の祈り」を唱え続けつつ深い瞑想の境地へと入ってゆく方法があり、これは「ヘシカズム(英語版)(静寂主義)」と呼ばれている。(祈り、イイススの祈りの項も参照)
回教(スーフィズム)
イスラム教の神秘主義哲学であるスーフィーにおいても、さまざまな瞑想が伝えられており、呼吸瞑想、五つの要素(地・水・火・風・霊気)による浄化、自然の瞑想ー偏在する神の体験、音による瞑想、などが存在する[3]。また立って回りながら行うワーリング瞑想は良く知られたスーフィーの瞑想法である[4]。スーフィにおいて覚醒とは、聖なる神の意識に目覚めることであり、神の目を通じて全ての現象を見つめ、神の心によって生きることである。
神道
神道では瞑想と言う語は使わないが、瞑想に相当する行法が存在し、「御魂鎮め」と呼ばれている。その実態は流派によって様々である。
科学的研究
瞑想は科学か
瞑想は、研究者や信奉者によってしばしば科学と呼ばれるが、それは正当であるかには議論がある。瞑想が、有効なデータ収集と立証を成立させる知識獲得の三要素に十分に従うとすれば、科学と呼ぶことは十分可能であるように思われるが、科学は経験主義的科学を指すのがごく普通の使われ方であり、このような見方からすれば、瞑想や霊性研究も科学ではない[1]。安藤治は、瞑想の「科学」的研究の正統性を主張したいのなら、この「科学」に経験主義的科学という意味を持たせないよう常に注意する必要があるが、「科学」という使い古された言葉を使う以上、容易ではないと述べている[1]。
研究
瞑想は東洋・西洋共に行われてきたが、ユダヤ教やキリスト教では宗教的実践の中心に据えられることはなかったため、欧米に広く知られるようになったのは、東洋の瞑想伝統の流入以降である。当初は懐疑的に捉えられ、とくに精神分析的訓練を受けた専門家たちは強い拒絶感を持ち、「瞑想とは、子宮内の生活状況への心理学的、身体的退行であり…一種の人工的精神分裂症である。」などと説明された。1960年代から70年代には、欧米に様々な東洋的瞑想実践が導入され、次第に正当な評価を心がける心理学者や精神科医も現れるようになった。
瞑想は欧米で補完・代替医療としても注目され、研究が行われてきた。初期の研究は、超越瞑想の普及を目指すマハリシ財団旗下の大学で超越瞑想を対象に行われたものが多い[5]。これはヒンドゥー教に由来する瞑想法で、支持者は自己啓発法やリラックス法として科学的に効果が証明されていると主張し普及を行っている[5]。支持者は他の瞑想法と異なり心を集中させることはないとしており[6]、研究者は「マントラ(静かに復唱する単語、音、または語句)を用いて心に入り込む雑念を追い払う」と説明している[7]。多くの研究者は、超越瞑想の研究はその実践者や支持者によるもので、研究結果及び研究方法の妥当性に疑問を投げかけている[5]。瞑想法の種類によって心身への影響は異なると考えられているが、その点を考慮せず行われた研究も少なくない。
ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ(英語版)は、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者のメラトニンやセロトニン濃度は上昇し、コルチゾールやアドレナリン濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした。
こうした研究成果は、あくまでも脳と体験に「対応関係」がある事を示すものである。(脳内の変化が体験を生み出すという因果関係を証明するものでは無い。)ニューバーグは、瞑想時における様々な体験が「客観的な現実であるか」と問われた時に、それは「神経学的な現実」であると返している[8]。
治癒的な作用
瞑想研究を概観すると、瞑想は心理学的に健康を導き、感受性を高めることが示唆されている[1]。不安(漠然とした不安だけでなく、不安神経症による不安も)を軽減し、閉所恐怖、試験恐怖、孤独恐怖など特定の恐怖症にも有効性があり、アルコールや薬物の乱用を抑え、精神科の入院患者にも有益であるという報告もある[1]。また心身医学的な見地から、心筋梗塞後のリハビリテーション、気管支喘息、不眠、高血圧に有効であるという可能性も説かれている[1]。また瞑想者と非瞑想者との比較において、人間関係における信頼や自己評価、自己コントロール性、共感能力、自己実現を促進するという研究結果もある[1]。精神科医の安藤治は、このように瞑想が臨床的に治癒的な作用を持っている可能性が示唆されているが、これらの研究はまだまだ科学的研究としては必要な検証作業を経たといえるようなものではなく、またこうした治癒的な作用は瞑想に特異的なものとも言いがたいと指摘している[1]。
補完医療としての活用も試みられている。うつ病は再発を繰り返しやすく、再発防止のため最低2年間は抗うつ薬治療が推奨されているが、瞑想を取り入れたマインドフルネス認知療法に再発リスク低減効果があるのではないかとされ[9]、英国の研究チームが効果があったと報告した。同研究チームでは3度以上うつを繰り返し、抗うつ薬を服用する経験者424人を被験者とし、半数ずつをランダムに分け、2年間にわたりマインドフルネス認知療法をする群と抗うつ薬治療を行い、両群の再発率を比較した。その結果、マインドフルネス認知療法群で再発率が44%、抗うつ薬治療群で再発率が47%となり、両群に統計的に有意な差はなかった。研究チームは双方ともにうつ再発や後遺症、生活の質向上により良い結果をもたらしていたとした[10]。