マハーヴィーラ
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マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)座像(15世紀)
マハーヴィーラ(サンスクリット語:Mahāvīra、महावीर、「偉大な勇者」、漢訳仏典では「大雄(大勇)」)は、ジャイナ教の開祖である。
出家以前の名はヴァルダマーナ(サンスクリット語:Vardhamāna、वर्धमान、原義は「栄える者」)であった。クシャトリヤ出身。仏教を開いたガウタマ・シッダールタと同時代の人[1]であり、生存年代には異説も多い(後述「生没年について」)が、一説によれば紀元前549年生まれ、紀元前477年死没とされている。
古代インドの自由思想家であり、仏教の立場からは「六師外道」のひとり、という位置づけになる。
目次
1マハーヴィーラの生涯
1.1誕生
1.2青年時代
1.3修行と悟り
1.4布教の旅
1.5入滅
2生没年について
3尊称・異称
423人のティッタンカラ
5マハーヴィーラの思想
5.1バラモン教批判
5.2多元的実在論
5.3輪廻と業
5.4五戒
5.5アヒンサー
5.6無所有
5.7相対論
5.8補説
6視覚芸術におけるマハーヴィーラ
7マハーヴィーラの伝記
8脚注
9参考文献
10関連項目
11外部リンク
マハーヴィーラの生涯
誕生
十六大国時代のインド(紀元前600年)
マハーヴィーラは、十六大国時代のマガダ国(現ビハール州)のヴァイシャーリー[2]の一隅クンダプラに、クシャトリヤ(武士階級)に属する豪族の子として生まれた。父親は高貴な氏族の族長シッダールタSiddartha、母親はヴァイシャーリー王の妹トゥリシャラーTrisalaであった。両親ともジャイナ教の前身にあたるニガンタ派[3]に帰依していた。ナータ族(パーリ語。サンスクリット語ではジュニャートリ族)の出身であることからナータプッタ(「ナータ族の子」)とも呼ばれた。
ただし、伝説では、その出生は「救世主の誕生」という枠組みのなかに位置づけられる[4]。最後の救世主となるべき彼は、地上にくだり、パーサ(パールシュヴァ)によるニガンタ派の教えとその創設による共同体の道徳的完全さを復興しようと決意する。彼は、あるバラモンの妻デヴァーナンダDevanandaの子宮のなかに化身するが、神々は将来の救世主たるにふさわしい人物として天上の聖なる乳に彼を浸し、救世主はクシャトリヤの家に生まれなければならないとして胎児をマガダ国の王女である母親の体内へ移送する。偉大な人物の到来を予告する14とも16ともいわれる一連の夢によって、2人の母は、救世主・転輪聖王の誕生を告げられる。そして、ブッダやザラスシュトラにおけるのと同様、生誕のその夜空に巨大な光が輝いたのである。それは、チャイトラ白月13日のこととされ、グレゴリウス暦では4月12日に相当するとされている。
この子はヴァルダマーナ(「栄える者」)という名を授かる。その誕生日は、マハヴィール・ジャヤンティ(Mahavir Jayanti)と呼ばれ、世界中のジャイナ教徒のなかで最も重要な宗教上の休日として祝われる。この休日は、祈り、装飾、パレードおよび祭典で有名である。
青年時代
ヴァルダマーナは、ブッダ(ガウタマ・シッダールタ)がそうであったように王子としての生活を経験し、若くして高貴な娘と結婚して一女をもうけた[5][6]という。青年時代にあっても、彼は高潔な資質[7]を示し、瞑想にふけり、自己凝視に没頭した。彼はニガンタ派の中心となる教義に興味を持っており、世俗からはいっそう遠ざかっていった。
修行と悟り
沙羅樹
30歳のとき両親との死別に直面したヴァルダマーナは、兄から許可を得て全財産を分与し、出家して一切を捨て、ニガンタ派の沙門(sramana)[8]の遊行者となって修行生活に入った。人生を苦(duHkha)とみて、正しい信仰(正信)・正しい知識(正知)・正しい行い(正業)[9]を通じて魂の救済を志し、13か月の瞑想を経てすべての衣服と履き物を捨てて裸形となった。これは、ニガンタ派の伝統から離脱する最初の革新であった。裸のまま「空気をまとって」世俗にかかわる所有物すべてを放棄し、12年間激しい苦行と瞑想にその身を捧げた。苦行を持続するあいだ、かれは感覚に対する典型的な統制のあり方を示し、また、人間、動植物を含むすべての生物一切に極限と呼べるほどの注意を払い、あらゆる意味でこれらを傷つけないよう努めた。リジュクラ川(リジュパーリカー川)の河畔ジュリンビカ(ジャブラカ)村での修行を完成し、2日半にわたる瞑想のあとの夏の夜、ジュリンビカの沙羅樹の下で真理を悟って「全能の力」を獲得し、「ジナ」(Jina、「勝利者」)となった。ジャイナ教とは、この「ジナの教え」に由来する。かれは弟子や信奉者によって「偉大な勇者」マハーヴィーラと称されるようになった。
布教の旅
以後30年間、裸体でガンジス川中流域のマガダ、アンガ、ヴィデアの諸国を遊行しながら、その教え(「精神の自由」という永遠の真実)を説き広め、とくにヴァイシャーリー地方には多くの信者を獲得していった。その教えはバラモンによる祭祀を認めず、ヴェーダの権威とカースト制度を否定し、当時としては合理的な世界観をともない、サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論は実践の指針とはならないとして、実践のあり方を具体的に示した。
マハーヴィーラは、ヴァイシャーリーの豪族の出身であり、ヴァイシャーリー王とも実母を通じての縁故があったため、布教上の便宜も多く、またマガダ国の王妃もヴァイシャーリー王家の出身だという関係でしばしばマガダの王都ラージャグリハ(ラージャガハ)にも赴いた。彼の教えはいたる所で歓迎され、40万人の信奉者がいた所もあったと伝えられている。
マハーヴィーラは、気候上もっとも厳しい季節であっても素足で衣服なしで説教をした。モンスーンの間は、他の聖人たちと同様、町の周囲に滞在した。
入滅
エローラ石窟群のジャイナ教寺院
マハーヴィーラは、72歳でマガダ国のパータリプトラ(現パトナ市)近郊のパーヴァー村(現在のパーワープリー)で生涯を閉じた。断食を続行したままの死であったといわれる。ジャイナ教では彼は第24祖(24番目のジナ)として扱われる。
彼がその生涯を終えたことは、ジャイナ教においては、死とは見なされていない。それは涅槃(ニルヴァーナ)に到達したのであって、魂は天空の最頂に達し、そこに永久にとどまったとされている。ジャイナ教では、これをモークシュ(Moksh、解脱)と称して祝日としている。
マハーヴィーラ入滅の年はいまだ論争の的であるが、ブッダの涅槃に先だつ数年前のできごととされる。伝承によれば、マハーヴィーラが死去した際、俗人の大規模な共同体のほか、1万4,000人の僧侶(サードゥ, sādhu)と3万6,000人の尼僧(サードゥヴィー, sādhvī)がいたといわれる。
生没年について
ジャイナ教団の伝統説によれば、マハーヴィーラは紀元前599年(または紀元前598年)のチャイトラ白月13日に生まれたとしており、その入滅の年を、ジャイナ教白衣派はこれを紀元前57年(もしくは紀元前56年)を起点とするヴィクラマ暦の470年前、空衣派は西暦78年を起点とするシャカ暦の605年前としている。つまりは、伝統説によるヴァルダマーナの生没年は紀元前599年-紀元前527年、または紀元前598年-紀元前526年となる。
近代の研究者は、彼がブッダと同じ時代の人物とされることから年代を推定することが多く、そのため仏滅年代と対応して各説が立てられることが多い。
パーリ語文献にもとづく「南伝」の仏滅年代によるヤコービおよびシュブリヒの説では、紀元前549年生まれ、紀元前477年死没[10]であり、漢訳仏典にもとづく「北伝」の仏滅年代を採用する日本の仏教学者中村元によれば紀元前444年生まれ、紀元前372年死没となる[11]。他に、紀元前539年-紀元前467年とする説、バシャムによる紀元前540年-紀元前468年とする説[12]がある。